「オール讀物歴史時代小説新人賞」選考結果

本日発売の「オール読物」誌上にて、一次、二次通過作品の発表がまとめてありました。
結果は一次にも通っていませんでした。予想通りです。
こちら↓提出時のエントリ。

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この時も書いてますが、提出した作品はホントにダメなデキで(自信がないとかそういうのではなく、ホントに小説のテイになってない)、でもあの時は「とにかく期日に間に合わせて提出する!」ということに目標を置いていたので、それはそれでいろんな学びになったのでした。
一次にも通らないとはわかっていたものの、実際、(発表の頁に)影も形もないのを見ると、いったい自分は何をやっているのだろう…というしょんぼりとした気持ちになります。おこがましいけれど。
いや、作品が通らなかったことはべつに気にしていないのです、ホントに。
私だって読者の端くれですから、自分の書いた作品の善し悪しくらいはわかる。全くもってダメな作品が正当に評価されてるだけなので、それはいいのです。
でも、あのような創作の仕方はダメな作品以上にダメな姿勢で…それを思うたびに胸が苦しくなります。
作品を、ちゃんと愛してあげられなかった。大切に仕上げてあげられなかった。
その思いは、正しく「後悔」と呼べるものです。もう二度とこんなことはしまい、という悔しい思いを、今後の糧にしたいと思います。
創作は、期日に間に合えばいいというものではないです。
もちろん間に合わなければ何も始まらないのだけれど、当たり前のことながら、内容が伴っていなければ間に合う意味さえ無いのです。「数打ちゃ当たる」ではない。(ごめんなさい、当たり前すぎることを言ってると思われるでしょうけれど、こういうことも試行錯誤の一環で、いちいちやってみないと実感できないのです。バカみたいですが)
この公募に応募した時に「ああ、次回からは心から満足する自信作を送ろう。こんな急ごしらえのいい加減な作品ではなく、祈るような思いで結果を待つような、全身全霊を込めた作品を書こう」と心から思いました。そうでないと、何の意味もない。
期末課題の提出論文を書いているのではなく、売るための作品を作っているのだとあらためて気づきました。不本意なデキの論文でもどうにか試験に通りゃいいんですが、不本意な作品を売ることはできません。粗悪品を愛してもらうことはできないのです。
愛されない作品を作った心の痛みを、忘れないようにしたいと思います。この作品をそうしたのは私の責任です。可哀そうなことをしました。だからいつか書き直して自分だけでも愛せる作品に作り直そうと思っています。このままでは作品が不憫すぎるので。
私の創作上の次なる目標は、「結果を祈りながら待つことができる作品を書く」こととしました。
それは、「作品を大切に、思いを込めて作り上げる」ということと同義です。