『少年の君』(その2)

前回も書きましたが、この作品は、脚本、映像、演技、どれをとっても水準が高く、心に残る傑作です。
見る前は、いじめや受験戦争、格差社会に生きる若者たちの苦悩を描いた暗い映画なのかなぁと勝手に想像していたのですが、全然違いました。
こんなに愛おしい物語だったとは!
がっつり心を持っていかれてしまい、繰り返し見ているうちに、ここ数年で一番好きな作品となりました。
物語の真髄は汚泥に咲く小さな花の純真です。
汚泥が暗く淀むほどに、その花の白さが際立つ。
汚泥の記憶(例えば、いじめや暴力の)を実際に持つ人などにとっては、キツイ場面もあると思うので、もしかして万人に勧められるものではないのかもしれませんが、それでも私はこの作品を推したい。凄くいい作品だから、ぜひ見て!と、モーレツに推したい。

 

陳念(チェン・ニェン)[演:周冬雨(チョウ・ドンユィ)]は、大学受験を控えた進学校の優等生。
いじめを受けて自殺をしたクラスメートの代わりに、いじめの標的になってしまった。母一人子一人の貧しい生活で、母は優しいが、出稼ぎでほとんど家にいない上に、インチキ化粧品を売って、クレーマーや借金取りが後を絶たない。ツライけれど「北京(の大学)に行くまでの辛抱だ」と我慢して勉強に励んでいる。

 

小北(シャオベイ)=劉北山(リウ・ベイシャン)[演:易烊千璽(イー・ヤンチェンシー)]は母親に捨てられたストリートチルドレン。悪い大人たちから「強盗と薬物」以外のハンパ仕事を任されるチンピラで、喧嘩や揉め事は日常茶飯事。学校には行っていない。一人で高架下の廃屋に住んでいる。

進学校の優等生と裏町のチンピラ。
出会うはずのない二人が出会い、物語が生まれる…という、ありがちな設定。
でも、この二人がとんでもない存在感を放って無二の世界を作っています。

 

以下、あらすじに沿って私的感興を語ってゆきます。長ったらしくてわかりにくいでしょうけれど、こういう形で書いておきたかったのです。ただ私がうっとりするためだけの覚え書きです。あらすじっても、私が書きたくないことは書いてなので念のため。要するに全然あらすじなんかじゃないですよ、ってこと。


以下、ガッツリとネタバレしてますのでご注意を!

 

◆最初の出会い
出会った日の二人は揃いも揃って「いじめられる側の人間」だ。情けない姿を互いに見ている。最低だ、と互いに思っていただろうなぁってところから始まる。
ボコボコにされている小北に陳念がキスをした時、小北は少なからず驚いたと思う。なんてトロイ奴なんだ、と呆れながらも、救われたような気がしたに違いない。
取られたお金を返し、壊れたスマホを治し、ボディガードになってやろうか?とまで言ったのは、唇に暖かな記憶が残っていたからかもしれない。あんな状況であっても、彼なりに、きっと嬉しかったのだろうな、と。あの気まずい経験を「キスした仲だろ」なんて言っちゃうあたり、忘れられないのがバレている。可愛い。
成り行き上キスしただけの陳念にとっては「なかったこと」にしたい出来事。そもそも受験のことしか頭にない。「こんなことに関わっている暇などないのだ!早く解放してくれ!」という思いが、黙りこくった全身から滲み出ている。態度がとことんクールなのは、小北のことを軽蔑しているからだ。

 

◆二度目の出会い
いじめられて泣きながら帰る陳念の前に、偶然?ってタイミングで、白馬王子のように小北がバイクに乗って現れる。まぁ、偶然なわけないんだけどね。小北、陳念のことつけまわしてるのバレバレだし。気になってしょうがないのね。
誘うまでもなくあっさりバイクのタンデムに乗った陳念に、戸惑い気味の小北。陳念の行動って(キスの時もそうだが)小北の予想の斜め上なのね。その都度小北の心が「えっ!」って揺れるのがわかる。可愛い。
「どこへ行く?」「どこでもいい」で、とりあえず自分の家に連れてゆく。
二人向かい合ってカップ麺を食べる時も、チラチラと陳念の様子をうかがう小北。話のきっかけがつかめない。陳念は小北のことを一瞥もしない。
暗い顔をしている陳念に、気さくに「雑談」をする小北。でも小北が自分の経験値でモノを言うと、悲しいかなどうしても下世話な話になっちゃうの。ここ、笑っちゃ悪いけど「だろうねぇ」って感じで微笑ましい。
「彼氏と喧嘩したの?」「だから俺と?」「もしかして惚れた?」「安心しな、手は出さないから」云々。
陳念にとっては「はぁ??」って感じだ。イラついて「そんなこと、考えたことも無い。アンタ、最低の礼儀も無いんだね」とか言っちゃう。世話になったのも忘れて、陳念もたいがい傲慢なのよ。怒った小北に壁ドンされて「チンピラに礼儀なんかいらねえんだよ」と凄まれて、この日はそのまま一人で帰宅。
この時点では互いの心は全然通ってない。2人の見えている世界がまるで違うのだから無理もない。

 

◆三度目の出会い
流れが変わったのは三度目。いじめはどんどん酷くなってゆく。陳念は加害者たちの存在を警察に訴える(以前自殺した子も彼女たちにいじめられていたので)。取り調べののち、加害者たちは停学になるけれど、その恨みも加わり、さらにいじめは激しくエスカレート。待ち伏せされ、刃物で切り付けられ、やっとの思いで逃げた陳念は、小北の元に助けを求めに行く。「私を守って」と小北に頼むのだ。
陳念にとっては、もはやここしか行くところがない、何よりも大切な受験を乗り切るにはこうするしか方法がない、という最底辺のチョイスなのだろうけれど、小北にとっては大きな意味を持つことだったと感じる。陳念が頼ってくれた、自分を選んでくれた、という嬉しさにどれだけ彼が奮い立ったろう…と思うと目頭が熱くなる。小北は彼女が自分のことを見下していることもわかっているし、利用されることもわかっている。それでも小北は彼女を守ると決める。「小北に一つ借り」と一筆書かせて契約は成立した。「”借り”は飯かもしれないし、そうじゃないものかもしれないぜ」と、冗談めかして言いながら。
これで陳念は「安心」を得て、小北は「自信」を得てゆく。
二人の化学反応が始まる瞬間に、ワクワクする。

 

◆それからの二人
陳念は小北の家から学校に通うようになる。全国統一考試、通称「高考(ガオカオ)」まで1か月とちょっと。小北の家で勉強し、常に小北に後ろについてもらいながら通学する陳念。
このシーンは、すごくロマンチックだ。
陳念は、通学の合間も耳にイヤホンを入れて一心に英語のリスニングをしている。ふと後ろを見ると、いつだって離れたところにちゃんと小北がついててくれる。微かにホッとしたような表情を見せて、またリスニングに集中する。都会の人混みにいながら、英語の響きと小北の姿だけを頼りに、閉じた世界を歩く。その道は確実に未来へと続く道なのだ。
夜、小北の家で勉強をしていると、喧嘩でズタボロになった小北が帰ってくる。気になる陳念。一緒に過ごすようになり、身勝手に生きているだけだと思っていた小北のことを陳念は少しづつ理解するようになっている。「痛む?」なんていうちょっとした言葉だけでも、小北の心に優しく響くのだと知り、陳念の心が小北に寄り添ってゆく。
陳念は次第に小北のことを心配し始める。小北が仲間に呼び出されると、行かせたくなくて陳念が邪魔をする。その様子を見て愛おしそうに微笑む小北。冒頭からここに至って初めて陳念の笑顔を見ることができる。小北と過ごす時間が楽しいものに変わってゆく。若者らしい、わずかな青春の日々。
「一緒にこの町を出ようよ」という陳念のキラキラした瞳に、夢見たことなどなかった「未来」というものが自分にもあるかもしれないと小北は気づかされてゆく。小さな部屋で勉強する陳念を優しく見守る小北。陳念も安心して勉強に集中できている。暖かな明かりが2人を照らす。そこは誰にも邪魔されない、サンクチュアリのような「二人の遊び場」だ。


◆結び合う魂
しかし汚泥からはなかなか抜け出せない。ある日、小北が街のチンピラたちと警察に拘束され、陳念のボディガードができなかった。一人で下校する陳念が心配でたまらない小北。やっと警察から解放されてすぐに連絡するが、つながらない。急いで家に帰ると、見るも無残に傷つけられボロボロになった陳念がうずくまっていた。
その日の帰り道、加害者たちに凄惨な暴行を受けたのだ。
激高して仕返しに向かおうとする小北を、陳念は必死で止める。二人は抱き合ったまま悔し涙を流すことしかできない。無力で小さな二人が、都会の片隅の誰も顧みない暗がりで互いに支えあうように寄り添っている姿に、胸が詰まる。
このシーンで、小北は陳念の手を握っている。その手の小ささに、さらに泣けてくるのが伝わってくる。「この子を守れない自分に価値なんかない」とまできっと思ったに違いない。小北は、そういう子だ。セツナイ。
ぐちゃぐちゃに切り刻まれた陳念の髪をバリカンで刈ってあげながら、小北はぽろぽろと涙を流す。そして自分の髪も同じように刈ってゆく。彼女の痛みは彼の痛みでもあることが可視化される。
坊主頭のツーショットには、もはや見た目の男女差も無い。二人は相似形だ。ジェンダーを超えての、魂の結びつきを思う。
この物語を「ラブストーリー」とくくりたくない気持ちがどこかにあるのは、恋愛と呼ぶにはあまりにもピュアで深い二人の関係を思ってしまうからだ。いや、究極のラブストーリーではあるんだけども。

 

◆共生する二人
ここから映画の中での時系列がズレる。意図的に時間を飛ばして描かれる中に、一つの事件が起きていて、それはのちに真相がわかるという…突然のミステリー仕立てになる。
高考の第一日目。雨の中、受験生を見送る教師や父母の集団の中に小北の姿もある。心で祈って陳念を「戦場」へと送り出す。
じつはこの「戦い」は、満身創痍だったのだと、後になってわかる。けれど陳念は大勝利をおさめる(高得点を取って憧れの大学に行ける資格を得た)のだ。でも二人にはさらなる戦いが待っている。

同じ頃、雨で崩れた工事現場の土砂の中から、いじめ加害の首謀者だった少女の遺体が発見される。
警察の調査で、陳念が容疑者として浮上する。彼女たちの集団に激しく暴行を受けている動画が警察の手に渡り、恨みによる犯行ではないかと疑われたのだ。アリバイも証拠も無い。動機はある。
それと同時に、死体遺棄現場で一台の車が目撃されていたのが判明。その線から浮かび上がったのが小北の存在だった。小北は婦女暴行犯を真似て夜道で女性を襲うふりをしてわざと顔を見られるようにし、遺留品を残していく。その件で警察で事情徴収を受ける小北は、遺体の少女も自分が殺したと「自白」する。
この先の展開はミステリー仕立てなので、あえて詳しく書くのはやめておきます。

このターンで大奮闘を見せるのが事件担当のチェン刑事[演:尹昉(イン・ファン)]。彼は二人のたくらみに気づき、二人を救いたいと本気で思っている。救うには、二人の思うとおりにさせてはいけないというところまでちゃんとわかっているのです。その先にも人生があることを、大人は知っているんだよね。

チェン刑事は大人の良識と寂しさを感じさせる存在。
殺人罪を自ら被ろうなんて人がいるとは思えない」という同僚刑事の言葉に、チェン刑事は言います。
「俺らならね。でも、彼らは少年だ」と。
「少年」というのは日本語の意味の「少年」ではなくて、男女問わすに若い子のことを言います。彼らの若さはそんなこともやってのけちゃうんだよ、という…自分たちはもうできないことをやれる若さへの思い。その眩しさや、愚かさや、一途さを、チェン刑事は深く受け止めているのです。この人はとてもセンシティブな刑事さんなの。いいキャラクター。結果的に、二人は彼に救われたのです。

 

◆そして光の中で
二人は、面会室の中で泣きながら微笑んでいた。
痛みがないわけではない。陳念は「最後の試験を終えたよう」な心の解放感を感じているけれど、あれだけ頑張った大学に行くことは叶わなくなった。
小北は陳念の夢を守ってあげられなかったけれど、陳念が自分を見捨てなかったことに無上の喜びを感じていたに違いない。互いに少しだけ傷つきながら、それでも二人はこうするのが一番良かったのだと信じて、心からの笑顔を見せている。犠牲に拠らず、借りを作らず、同じ地平に立った二人は、別の車に乗って別の道を進みながら、すぐそばに互いの存在を感じ、幸せで穏やかな微笑みを浮かべながら、しばし別れてゆくのです。

 

◆数年ののちに
陳念は英語学校の先生として授業をしながら、一人の女生徒を気にかけている。何か悩んでいるような様子の女生徒の姿に、かつての自分を重ねている。
このシーンは映画の冒頭のシーン。ここから回想に入る形で物語が始まる。現在から始まり、過去の物語を経て、また現在に戻った形だ。
冒頭のシーンでは彼女は観客にとってまだ何者でもなかったけれど、同じ彼女の姿は今、暴風雨の中、必死で咲いていた小さな花の「その後」として観客の前に存在している。花は咲き続けていた。少し大きくなって。あんなことがあったことなどわからない、普通の大人としてそこにいる。人にはそれぞれ物語があるのだと教えてくれる、実に細やかな演出だと思う。
授業が終わり、女生徒と共に帰路につく陳念。
カメラが引くと、その後ろを小北が歩いている。

ああ、二人は一緒にいられるようになったんだ!とわかる。嬉しくて泣けてくる。

小北はかつての姿とはまるで別人の、こざっぱりとしたカジュアルスタイルで穏やかに微笑んでいる。
陳念が女生徒と二人で話をするので、小北は距離を取って後ろから歩いているのだろう。この「気遣いの距離」から、きっとこの二人は明るい表通りを、毎日並んで歩いているのだ、とわかるのだ。
時を経て実際に並んで歩く二人を実写で示さずに、こうした想像で止めておく演出も実に巧い。自分たちが大人になって並んで歩けるようになったからといって、それで終わりではない、という思いがそこには込められている気がする。今日の日もまだ汚泥の中でもがいている子どもたちがいることを、その子たちをこうして後ろから守ってくれる人がきっとあることを、そしてあの日、暴風雨に耐えた二人が、今は「守る側」にいることを、この構図は暗示しているのだと思う。
かつては必ずパーカーのフードを深くかぶっていた防犯カメラの前を、小北は堂々と顔を上げて通り過ぎる。心が暖かなもので満たされてゆく、素晴らしいラストシーン。

*****

二人の物語は、こうして始まり、終わる。
実は、一番のクライマックスをあえて書いていません。「そこ」で私は毎回どばーーっと泣くのですが、もったいないから書かない。ぜひご覧ください。

舞台となる場所は「安橋市」という架空の場所だけれど、実際の撮影地は重慶です。
やたらと坂(というか、階段)が多い独特な起伏のあるこの街並みを「山城」と呼ぶのだという。
段差のある街には、低いところに必ず「影」があり、その闇の中に蠢く人たちの姿は坂の上からはよく見えない。折り重なって多層化した陰影によって、格差の存在を、街の景色を映す中でも感じさせています。
映像は全般的に、光と影の捉え方が実に巧い。常に陰影が生かされている。暗い闇、人工的な蛍光灯の殺伐とした明るさ、白熱灯の暖かな明かり、雨にくぐもる曇天の光、眩しい陽光…それぞれのシーンで彼らを映すさまざまな光と影は見るほどに発見があって、凄いなぁ…と、唸ってしまう。
カットの割り方も最高。無駄なシーンが一つもないくらい、どのシーンにも意味があるし、どのシーンもきれい。
そして演じる人間の存在感が凄い。特に主演の二人。超絶に巧い二人が揃って、相乗効果でさらに深化した気がする。一見の価値ありです。

*****

周冬雨は「13億人の妹」と呼ばれてる女優さん。
華奢で透明感があって、儚げで、可愛らしい…けれど、見た目と違って気が強く、ハキハキしてて明るいタイプという、稀有なロリキャラ。これ、他の追随許さないでしょうね。

この作品では女子高生役をやっているけれど、この作品の撮影時は27歳。
撮影時、千璽は18歳だから9歳も冬雨の方がお姉さんです。全然見えない!
27歳にしてあの高校生(といってもかなり幼い印象の、どっちかっていうと中学生みたいな)女の子を演じられるなんて、驚異ですよ。不安げで所在なさそうな佇まい、どことなくギクシャクした手足の感じ、彷徨う目線…。息をのむような透明感は持って生まれた皮膚の薄さや白さもあるでしょう。そして彼女は「無表情で感情を多彩に表現する天才」と言われている。ほんとにそう!表情は動きが少ないのに、なぜあんなにも感情表現が豊かなんだろう。

易烊千璽には、『長安二十四時』の李必で夢中になったのだけれど、この小北で完全に落ちました。

彼は、憑依しているかのような役への入り方が圧倒的。全くもって素顔の(役に入っていないときの)易烊千璽ではなくなっている。もはや小北でしかない。小北の人生まで抱えてそこにたたずんでいる。
千璽は目の表情が最高にイイ。傑出している。長年、「眼神」と呼ばれる梁朝偉トニー・レオン)のファンだけど、千璽は間違いなく次世代の「眼神」だ。あのまなざしには神が宿っていると思う。

千璽がラッキーだったのは、あの年齢でなければ出せない限られた魅力を、この作品で発揮できたことだ。よくぞ、よくぞ、これだけきれいに撮ってくれたものだと思う。感謝しかない(いきなりファンの立場での物言い…)。
人生のタイミングと作品のキャラクターがガッシリ嚙み合うチャンスなんてそうあるもんじゃない。どんなに演技が巧くても、演技だけで出せないものはある。千璽はこの役を、タイミングと技術、という双極の最高値で結実させた。
オーディションの逸話を聞いて、なるほど、本当に彼らはプロフェッショナルなのだと感嘆した。
最初のオーディションでは千璽はまだ子ども過ぎて話にならなかったのだそうだ。落とされている。でも、配役は決まらず、時が経った。半年後、もう一度会ってみたら、千璽がちょっと成長していて、「お。これは」と思わせるものがあったと。で、キャスティングするのだけれど、そこからまたしばらく成長を待ったのだそうだ。理想の小北が出来上がるまで、製作陣は根気強く千璽が育つのを待ち続け、「まさに今だ!」というところに達した段階で撮影に入ったのだという。
この年齢の千璽が、この作品の、この役で永遠に残されたことは、偶然ではなく、クリエイターたちの夢の具現、執念の賜物だったということです。凄すぎる。

(続きます)

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