『少年の君』(その1)

映画『少年の君』に関してちょっと書いてみたら収拾がつかないくらい書きたいことが多いことに気づいたので、3回に分けてUPします。それでも長いが(汗)。
3回に分けた1回目(このエントリね)は、この作品を語るうえで避けては通れない二つの問題点について書きました。最初にこれを書いておかないと、続く話が落ち着いてできないような気がするので。
2回目に作品全般のあらすじと感想を。3回目に重箱の隅の萌え語りを書きます。いずれも手前勝手な冗長でクドイ文章が続きますが、よろしかったらお付き合いください。

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この作品は、脚本、映像、演技、どれをとっても水準が高く、心に残る傑作だと思っていますし、大好きな作品です。
実際、公開以来、興行成績はうなぎのぼりで、最終興行収入は15.58億人民元(約243億円)。中国映画興行収入青春映画ジャンルとしては中国映画歴代1位だそうです。
華々しい多くの受賞歴もある。第93回アカデミー賞ノミネートの他、第39回香港電影金像奨では、作品賞、監督賞、脚本賞、主演女優賞、新人俳優賞(千璽は主演俳優賞は逃したものの新人賞を受賞)など多くの部門で受賞。他にも様々な映画賞を受賞しています。

けれど、「ある事情」でこの作品は早めに撤収されることとなりました。それは、中国のSNSで騒がれだして広まった、原作の盗作疑惑です。
原作は玖月晞(チオ・ユエシー)のオンライン小説『少年的你,如此美麗』。
この作品が東野圭吾の小説いくつか(『白夜行』『容疑者Xの献身』など)のパクリだというのです。
中国では東野圭吾の人気が非常に高く、作品はかなり浸透していてファンも多い。東野圭吾「的」な推理小説が山のようにあるらしい。リスペクトの意をきちんと表していたり、東野圭吾のアレンジだと前もって断っているものも多いとのことですが、この小説の原作者である玖月晞は、疑惑を完全否定しています。「全く関係ない」と。
その態度が火に油を注ぐかたちで、さらに騒動は大きくなります。検証サイトまで出てきて比較して指摘する東野ファンまで出てきたり、日本の出版社に「パクってるやつが平然と小説を売ってますよ!」と直接報告してくることもあったようです。
そんないわくつきの作品なのに、なぜか映画化が決定。当代きっての実力派若手俳優と気鋭の監督を使っての渾身の作品が出来上がりました。
何度も言いますが、この映画、本当にすごくイイ作品なんですよ。熱狂的に支持されて当然というレベルの作品なのです。
であればなおさら、「こんなこと、許されるわけ無いよね?!」という原作者に対する声もどんどん大きくなっていくのです。映画がヒットすればするほど、正義感を持った人たちは黙っていられなくなる。
日本での公開が決まった時も、「東野圭吾の国まで恥をさらしに行くのか」と揶揄されていたとか。
映画の出来がどんなに良くても盗作疑惑の声が高まってくる中では、小規模上映の上、早めに撤収やむなしとされたようです。

私がこの作品を見た限りでは、『白夜行』を思い出す事は無かったけれど、言われてみれば…という部分は確かにあるかもしれないと感じました(私も東野圭吾の作品はほとんど読んでいます)。秘密を隠して互いを支えあってきた二人の若者、という設定は似ている。愛する人の身代わりになって罪をかぶる、というところは『容疑者Xの献身』か。でも物語全体の印象が全然違うので、コンセプトが多少似ているかな?という程度で、盗作とまではいかない気もします。ミステリーのトリックや設定ってのは、似たようなものを違う方向からこねくり回して使いまわしているようなところもあるので、一概に「似ている」というだけでは盗作とは言えません。
けれど、この「コンセプトが似ている」的なのもクセモノだそうで。
中国ではこういうのを「融梗(Rong geng)」といって、一言で訳すと「パクリネタ」って意味なんだけど、作品の構成やアイディアを抜き取る行為で、「盗作」とまではいかないながらも、ズルい利用の仕方をしているものを指すらしい。「いいとこどり」みたいなものか。これはこれで批判されるということです。

原作者の玖月晞は、
「私はほかの誰よりも(盗作や二次創作に関する)明確かつ専門的な基準を求めている。この定義があいまいなままでは、創作者はみな非難を浴びる被害者になりかねない。これは、創作の自由に対する大きな傷害だ」と、盗作を否定したうえで、言ってます。
これは疑惑の否定にはなってないですね。「どこからどこがダメって線引きしてくれよ」って言ってるだけで、開き直りともとれるコメントです。

盗作疑惑を主張する側の言う通りなのであれば、作品の打ち切りや賞の辞退などは当然でしょう。
演じた彼らには何の非もないし、そこは切り離して評価されるべきだと個人的には思うけれど、作品にミソが付いた以上、そこも諦めるべきなのだろうな。気の毒でならない。千璽があんなに渾身の演技をしたというのに、何やってんだ周りの大人たちは!と怒りが湧いてくる。

実は、ここで言うべきかわからないが、昨日見た千璽の他の映画も盗作疑惑があることがネットを巡っていたら判明した(哀)。千璽の演技は完璧で素晴らしかったのに、またか?!と呆れる。どんだけチェック機能が働いていないんだ中国の映画界は?こんなことが続いて若い身空で腐ってしまわないように祈るような気持ちよ。誰かあの才能を本気で守ってくれよ!と切実に訴えたくなる。

ついでにもう一つ言うと、日本公開の際には新たに「これって『ホットロード』じゃね?」という疑惑もあちこちで言われていたようです。紡木たくさんの漫画『ホットロード』ね。
そりゃこの絵を見れば、そう言われるんでしょうが、それはほぼ言いがかりなんじゃないかと思います。

ホットロード』的な世界は若い子を描く中でありがちなものだし、不良と優等生の恋なんかも巷にあふれている設定です。いや、私は『ホットロード』大好きですけどね!

そもそも『少年の君』って、設定自体は手あかがついたような既視感のあるものなんですよ。古い、と言ってもいいくらいの。それなのに凡庸な作品にとどまっていないから凄いのです。映画的な…演出やカメラや演技といった、そういうものが格段に巧いのです。絶妙な表現力で唯一無二を作っているの。
ということで、『ホットロード』はともかくとして。
いい大人たちが雁首揃えて、原作を映画化する時点でこういったことになんで気づけなかったのか。それがひたすら残念です。映画化の前からそういった声は上がっていたらしいのに、誰も気づかないものなの?それともしらばっくれているのか?
たくさんの人たちが関わっているプロジェクトなのに、あまりにもユルい。
こういうことがあると、日本には「だから中国は」と、言う人が必ず出てくる。それが凄く嫌だ。
日本だってパクリはあるし(世界に発信するオリンピック関連でさえパクリがあった)、国籍関係なくどこにだって不埒な奴はいる。でも、中国はあまりにもこういうことが多いし、それがこういったエンタメの世界で国際的に晒されてゆくのは、ファンとしては耐え難い。中華芸能を愛しているからこそ胸が痛むのです。絶対に変えていってほしい。こういったことがチェックできにくいシステムがあるのだとすれば、そこは改善するべきです。とてもよいものが作れるのに、こんなことで無駄になってはたまらんでしょうよ。

今回の疑惑についてデレク・ツアン監督の反応は以下のようだったとレコードチャイナが伝えています。

「私は原作を一度読んだだけだ。映画は原作を大幅に改編し、撮影に適した部分だけを残した。映画の中の人間関係、ストーリー設計などは原作とは大きく異なる」とし、盗作騒動については「知っている」としたものの「その本(白夜行)は読んだことはない」と語っている。

うーん…。監督はいつ疑惑を知ったんでしょうね?知ってからも撮影を強行したとしたら、やっぱりそれはユルいんじゃないかと思う。わかった時点でご破算にするくらいの勇気を持たないと、結局は苦心して作ったものもバッシングの対象として傷がついてしまう。デレクの才能も素晴らしいものなので、こんなことで作品にミソをつけられたら自分が一番困るでしょうに。
こんないい作品が埋もれてしまっては元も子もない。はじめの一歩のチェックがいかに大切か、関係者は猛省して欲しいです。

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もう一つは「国策」という観点について。
中国の作品はなんだかんだ国策映画なので評価が難しいと思うむきもあるようです。検閲があるのは当然で、それは映倫のように平和で甘いものではないのです。かなり影響はある。エンタメ作品を見ているはずなのに、ふいに国の権力がチラつくと興ざめになるものです。
この作品は、描かれている背景が中国の暗くてダメな部分で、いじめや貧困、格差社会や、歪んだ受験戦争などがあからさまに出てくる。よくこんな真っ直ぐな作品が検閲通ったな…と思いつつ見ていると、最後にいきなりエクスキューズが入ってきます。
「国はこういった事態を決して見過ごしていないのだ」というエクスキューズが。
いじめや格差があるのは事実と認めていて、「それに関しては私たちも全力で頑張って改善しようとしています」「そのためにこれこれこういう政策をしました」「こういう制度を整えて、こういう成果を上げました」…とアピールをする。しかもそれを若い子たちに絶大なる人気をもったアイドル(千璽ね)に語らせるのです。
こういうところはいかにも中国だなぁという感じです。
だからといって作品自体に歪みを感じるわけではない。その程度(国が最後に一言添えるくらい)のことは気にならないほど作品のグレードが高いのだし、こういう無粋なものを入れ込まれても、堂々と作品を出してくる制作側の根性も座ってるように思います。

でもよく考えると、内容的にも微かに誘導はされている。この映画の中に出てくる教師や警官などの大人たちが、みんな理解ある立場に立っているのとか…きれいごとととらえられても仕方がない部分がある。「公権力はあなたたちの生活をちゃんと守りますよ!」と暗にアピールしているようでもあり、こういうところが、国策たる所以なのかもしれない。
冷たいリアリズムより暖かな理想を見たい、と思ってしまう私には「きれいごと」もあまり気にならないが、こういうところを指摘する人は、「それが実際とは違う(まやかしだ)からダメなんですよ」という。
そこに「まやかし」があるかないかというだけのことであれば、映画の中くらいはまやかしで夢を見させてくれたっていいじゃん?と思ったりするが、甘いのだろうか。よくわからない。
このあたりの感覚はひとそれぞれで、たぶん物語の中のことをすべて現実と結びつけるような人は、そういうものに接する器量がないのだろうなぁと私は勝手ながら思っている。映画を見ても、ずっと自分軸で見てるような人は思いのほかいる(話せばすぐわかる)。物語世界と現実世界は隔絶しているから面白いのに、なぜか混ぜちゃう人達が。
そういう人たちにとっては「こんなこと嘘じゃん」が正義になる。「これはこういう”物語”なんだよ」ってのは、心に響かないらしい。私からすれば、頑なな正義を持っている故に物語を正しく受け止められない人の方が、より「まやかし」に洗脳されやすいともいえる。物語はしょせん物語なのだから。
何が言いたいかというと、中国映画特有のきれいごとに気づいていないわけではないんだよ、ということです。いろんなところに意図的にきれいごとが配置されているのを、わかって見ている。だからといって、洗脳されているわけではないし、だからといって、作品の全てがダメなわけでもない。
確かに「国策」かもしれない。でも、作品を作るほうも、このシステムの中で自分たちの表現を守ろうと工夫を凝らし、情熱をもって頑張っている。『長安二十四時』の感想でも書いたけれど、だからこそ素晴らしい作品が生まれるともいえるのです。
今回の作品のようにあからさまな介入があっても、「それはそれ」で、作品自体を見てみることで、現代中国のエンタメの位置が見えてくるように思います。

『少年の君』という作品を見るには、事前にこの二つの「問題点」を知っていたほうがいい、と思い、私のスタンス(?)というか、思っていることを書きました。これらの問題点をわかったうえで、私はこの作品が大好きです。そのことを次回からは書きますね。
伝えるべきことは伝えたので(義務完了!)、あとはこっちの自由に語ります。