読みたい物語が書きたい物語

「書けるものを書くな、読みたいものを書け」
Write the one wanting to read not writing the one that it is possible to write.

 

けだし名言です。
いろいろと方向性に迷いがあって、なかなか書くものが定まりません。
基本、文章で何かを表現することが好きだし得意なので、「書ける物語」はいろいろとあります。それを書けばそのうち作家になれるのかもなとも思います(世の中に出回っている駄文を見てればそう思うのも当然、てくらいの自信はあるのです!)。
でもそれでいいのか?という思いにいつも躓いてしまう。
自分の「書きたい物語」と「書ける物語」の間のギャップが大きいのです。
「書きたい物語」を書けばいいのか「書ける物語」を書けばいいのか、というところで迷ってしまうのです。結論はわかっているのに、迷う。下手な作家が賞なんて獲っているのを見ると羨ましくて悔しくて、不本意な方向に流れてしまいそうになる。
「書ける物語」と「読みたい物語」にもかなり距離があって、「読みたい物語」は「書ける物語」ではなくて「書きたい物語」なのだ、ということに気づいてはいても、それを書く力量はなかったりするのです。
自分に書けないものだからこそ読んで楽しいんだろうけれど、その理屈でいくとそれじゃ永遠に書きたいものは書けないわけで。そりゃもうどうにもこうにも…って感じになっちゃう。
要するに、理想が高いのです。気がついたら何か書いている、というタイプではない。いいものをたくさん読みすぎてしまったのかもしれない。こんな歳まで読書家だったのだから、素晴らしい作品をいくつも知っている。そこと競えるようなものが自分に書けるはずはないとどこかで諦めている。諦めと理想の中間の落としどころを探っているような感じが、我ながらすごく嫌です。

30代になった頃くらいから、自分が読書をすることにある種の敗北感を感じるようになりました。
それは「自分はあくまでも読む者ではなく書く者であるはずなのだ」という思いが満たされず嵩じたちょっとした「歪み」かもしれなくて、こういう心理傾向にない人から見たら明らかに異常でしょう。
でも、読みたい本は山のようにあります。毎日のように本屋に行き、週末ごとに図書館に行く。
けれど、私が他人の書いた物語を読んでいるとき、内なる声は常に私にささやき続けているのです。

「アンタ、他人の作った物語を読んでるヒマなんてあんの?」

その声に逆らいつつする読書は、やはり自分の中では楽しいだけの行為ではないものになってしまっているのかもしれません。それを純粋に楽しい行為として享受できるのは、「自分では書けないけれど自分が読みたいと思っていたもの」と出会った時です。自分が書けない(レベルの高い)作品は、安心して楽しめる。これぞ読書の醍醐味です。

この傾向は歳をとるごとに酷くなっています。
人生の時間は少なく、おのれの才能は貧しく。
「書く人」を諦めたら、ラクだろうな、と思わない日はないのです。心置きなく「読む人」でいられたら、きっとすごく楽しいんだろうなと。
でもとりあえず、私はラクじゃないことを選んでる。
いつまでかわからないけれど、とりあえずそれが私の進むべき道だと思い込んでいる間は。