物語のその後は

「シャンドライの恋」で、ピアノがなくなった後のキンスキーは、どうしたのだろうか?
ふと、そんなことを考えたら、あの物語は序章にしか過ぎず、本編がこれから始まるというところでブツッと切られてしまったのだと思えてきた。
終わりだと思った時点が実は終りではなく始まりだったというのは、よくある日常的な話なのだろうと思う。
人間は一生の間に何度も終わり何度も始まる。
今日が終わっても明日が始まるし、失恋するから次の恋が始められる。もしかしたら死さえ終りではないのかもしれない。次の世界がどんななのか、誰も教えてくれないからわからないだけで。


それで、キンスキーの話だけど、どうも私にはピアノを売ったキンスキーの心の中に、「ワクワクしたような何か」を思わずにいられないのです。
私の感じ方がヘンなのかもしれないけれど、どうしても、彼は「(金の工面のために=シャンドライのために)仕方なくピアノを売った」のではなくて、もっと積極的な感覚を持っているように感じるんですよ。つまり、ピアノのない自分、ってのにもちょっと期待しているような。この勢いに任せてそういう状況もいいかも!みたいな。
キンスキーはシャンドライのために「大事なピアノさえ手放した」のか、それともシャンドライのおかげで「ちょっと冒険してみる勇気を得た」のか。
行動(=ピアノを売ってしまった)の裏づけになる動機ひとつで、その後の物語(つまりは本編にも相当する未知なる物語)のトーンは全く違ったものになる。
「大事なピアノをなくした」自己犠牲モードなキンスキーと「ちょっと冒険してみる」好奇心に満ちたキンスキーは、同じ失業者(?)であるにも関わらず、その精神性は大きく違う。
もちろんその二つの感情の間には明確な境界線はなく、「灰色」かもしれないし、その可能性が一番高いけれども。


私がもしこの物語の作者だったら、ほぼ確実に(最初から)、冒険するキンスキーを目指すと思う。「過去の自分から解放されゆく」キンスキーを。
もちろんシャンドライは去ってゆく。ここで彼女が去らなければ、恋は成就しないから。
でも、キンスキーはピアノがなければ食べていけない男、ではすでにない。
シャンドライによって、別のステージに上がることができている。
それは「ローマの休日」のアン皇女だったり、「恋に落ちたシェークスピア」のシェークスピアと同じで、意思的な別れにより相手の実存よりも真実である何かを手に入れる、ということなんだと思う。
その「真実」とは、自分の人生を生きる糧だ。恋が産む、ものすごくパワフルな糧。
キンスキーにも、それがあったらステキだ。
キンスキーは恋することですでにその心にじかに音楽が流れているのを感じたかもしれない。
ピアノという分身無しに自らが歌えることに歓び、とりあえず、ピアノを手放せるまでには、彼は「自立」した。と想像するのは楽しい。
その冒険が成功するか失敗するかはわからないけれど、キンスキーはきっと前向きだ。
ピアノはいつかまたキンスキーの元に戻ってくるだろうし、結局、時が経てば以前と変わらない日々を過ごすようになるかもしれない。
というか、きっとそうだろう。彼はピアニストなのだから。
でも、キンスキーはピアノを売りさばいたことで確実に何かを得ている。たぶん、ピアニストとしても。


この物語は、誰も、何も失ってなどいない。
と、私は思うようになった。だからじんわりと暖かいのだな、と。
あの中途半端なラストシーンは、それぞれの「本編」を作ってくれよ、という作者の親切なw設計なのかもしれない。
あなたのお好きに、と投げられたボールだ。
そのボールでは、かなり遊べる。


悲観的なとき、私はつい「さよならだけが人生だ」と思う。
毎日、私たちは少しずつ死んでいるのだ、と。少しずつ絶望的なまでに何かを失っていくのだ、と。
でも、ちょっと視点を変えてみると、私たちは日々何かを得て、新しい天地に立つ頼もしい存在なんだと思う事だってできるし、本当のところ、そういう考えが真実なのではないか?という気もする。
「ピアノがなくなった後のキンスキーは、どうしたのだろうか?」の答えは、「どうもしない」だ。
とりあえず私は、自分の作る物語の中では、そういう答えを用意していたい。