「54」!party is over.

54 フィフティ★フォー (字幕版)

54 フィフティ★フォー (字幕版)

  • 発売日: 2016/11/01
  • メディア: Prime Video


「54(フィフティーフォー)」を観ました。
これ観るのは3回目くらいなんすけど、回数を重ねるごとに良さがわかるようになってきた。
元々、こういった70年代末くらいのアメリカのショービズ界にある、めっちくちゃなゴシップ話が大好きなんだけど(興味を持ったのはベルーシの死を取り上げたドキュメント「WIRED」を読んでから)、最初見たときはちょっとその濃さに目眩がしちゃって…即物的なシーンばかりに意識がいって、物語の核がちっとも見えなかったんですよ。
わかっちゃいるけど、ショービズ界の”社交”ってのは圧倒的なんだもん。現代の「酒池肉林」だ、まさに。
この作品は、そんな「この世の果て」とも思えるパーティーの華やかさと虚無がとてもよく描かれてます。作りも丁寧で、グイっと虚構の世界に入りやすい。
観終わった後、長いパーティー・ナイトが終わった気がするんだよ。ボーッとしちゃうの。
今日これ観終わったのは午後の3時くらいなんだけど(DVD観たりってのは坊やの昼寝タイムを使ってるので、こういう真っ昼間が多いんです)ふと現実に還って溢れるような陽射しと日常的な街の音に触れても、「54」帰りの自分の感覚がうまくそこについていけないのね。軽く時差ぼけのようなキモチワル〜イような収まりの悪さに戸惑う。
ナイトクラブに通う生活なんて続けていると、昼間を生きていけなくなるかもしれない。
昼間の光って強いもん。いくら夜に元気でも、昼に元気でいるのにはもっと体力・精神力が要る。そういうのをつくづく思う。昼と夜は地続きだけど、どこかで世界がガラッと違う。
光が無ければ闇も無いけれど、光と闇は決してつながらない、みたいな。
何言ってるのか自分でもよくわかりませんがw


「54」ってのは、70年代末にNYにあったセレブ御用達ディスコです。
飛ぶ鳥を落とす勢いの業界人やスターが溜まり、最先端のファッションや音楽がここにあったといわれている場所。
ウォーホルが、こんなことを言っている。

伝記 ウォーホル―パーティのあとの孤独
《スタジオ54》は一種のライフスタイルだ。
人はそこに住んでいる。
そこでダンスをする。
そこで酒を飲む。
そこで友達をつくる。
そこでセックスをする。
そこでビジネスをする。
そこで眠る。
ときどき、あまりに楽しすぎて、ぼくはあそこで誰かが殺されるんじゃないかと考えずにいられない。
ニューヨークには地震がないが、もしも僕たちが地震にあうとしたら《54》にいるときだろう!

『伝記 ウォーホル パーティーのあとの孤独』F.L.ガイルズ著 野中邦子訳 文藝春秋


キラ星のような映画スターやミュージシャンはもちろん、トルーマン・カポーティアンディ・ウォーホルイヴ・サンローランカルバン・クラインヴァレンチノバロウズ…など、作家やクリエイターたちもやってきてた。
ホロヴィッツ(ピアニストのね!)までもが訪れているのにはビックリ!
あ、でも、彼はゲイだというから、ありうるのかな。
「54」は、カリスマ・オーナーのスティーブ・ルベルがゲイだったこともあって、その方面の人たちの楽園でもあったのね。(ルベルは46歳の若さでエイズで亡くなっている)
てか、ホロヴィッツがディスコに行ってた、ってのがありえないと思うんだけど、そこはそれ、地下室などはVIP専用の高級クラブになってたようです。いろんな秘密部屋があったというからスゴイ。
全方向対応のシステムが、この場を若者だけのものにせずにすんだのでしょう。
そんな、ドラッグと酒とタバコと性交と社交と売り込みと…夜毎欲望が乱れ飛ぶ別世界のような場所に、ニュージャージーの無教養な田舎青年がやってきて、やがてバーテンダーとしてノシていくが…というのがこの映画のストーリー。


この、田舎モノの青年を演じているのがライアン・フィリップなんですが…
これがアナタ、めちゃめちゃ美形なのだ!しかもセクシーで、純朴さもある。キャラ造形もイイ。
見惚れちゃうよ。
ライアン見てるだけでお腹いっぱい満足できちゃう。
まさにこれを眼福というのであろうなぁ。
なのにココにハマらない自分って…(^^;;


それに比べて(って、比べるものではないと思うけどどうしても…ねぇ)同僚で友人役のブレッキンは限りなく貧相です。暗いし。
キャスティング的にはすごくイイと思うんだけど、とにかく見てるのがツラくなる。
観るたびに萎える。
演技が巧いからなおさらキツイ。



ライアン、映画の半分以上は上半身裸ですが(「54」のユニフォームが、上半身裸のためw)、体つきもとてもキレイ。
なんかもう、ブレッキンは完全に引き立て役なんだよねぇビジュアル的に。
まぁ、ストーリー上、そういう役回りだから、いいんだけども。
「チビで出世できない」って何度も出てくるし。自虐か?みたいな。


カリスマ・オーナーのルベル役をしているマイク・マイヤーズもめっちゃ雰囲気あるいい演技です。器用な人だよねぇ。
ブレッキンの妻アニタの役をしているサルマ・ハエックは私はどうしても好きじゃないの(てか嫌い。顔が。ごめん)。
この役を、すごく可愛らしい女優さんがやってたら、ブレッキンの役ももうちっと浮かばれたような気がするんだが…
なんかもう、あの女房の存在がとにかくウラ寂しさを倍加している。暑苦しい!
とはいえ、物語的にはその「カップルしてとことんドン臭い」ってのに意味があるので、何も問題ないのだろう(というか、きっとハマリ役)。私のシュミじゃないというだけね。

酒池肉林のような、この世のものではないようなお祭り騒ぎの「54」の中で、様々な人の人生が交差する。
中でも印象的なシーンが2つある。
ひとつは常連のお婆さんのエピソード。いつも「54」に踊りに来ているお婆さんがいる。
ふとした時、昼間の街のドラッグストアで出会うと、まるで印象が違う”いいところの物静かなお婆さん”として生きているのに、夜中の「54」では派手な衣装に身を包んでドラッグきめきめで踊りまくっている。
でも、ある日このお婆さんが急死するんです。踊っている最中に倒れてしまってね…倒れたお婆さんの肢体にきらびやかなミラーボールの光が降り注ぐ。夢のように。
このお婆さんが求めていたものは何だったのだろう?「あちら」と「こちら」の境界線には何があるのだろう。

もう一つのエピは主人公が朝、家に帰るシーン。憧れの女の子と前の晩デートして…でもその子は顔はいいけど心が貧しい子でね。なんだかちょっと”夢から覚めた”感覚で、朝の街を歩く。明るい日差しの中には普通の人間の暮らしが見える。もう自分は戻れなくなった世界だ、とどこかで思ってる。虚構と現実の落差というか、世界が違う感じ。夜の顔(虚構)が、ふと朝の顔(現実)に戻った時のしらけていると同時に地に足のついた感じがよく描けているんですよ。
「54」に浸かる人たちの寂しさと刹那の快楽を想像すると、これはまたショービズ界の縮図なのかもなぁと思ったりもします。一度知ってしまったら、きっとドラッグのように抜けられないのかもしれない。


それと、感激したことが!
エンディングで、ホンモノの「54」に来てた当時の有名人たちのショットが映し出されるのですが、そこに大好きなギルダ・ラドナーを発見しました!

うわ〜。70年代だなぁ。
こういう世界にいた人なんだなぁ、とあらためて思う。実はとても遠いんだな、と。


ところで、ブレッキンとライアンですが。
二人はめちゃ仲良しです。
一緒にプロダクションの会社をやってるんですよね(セス・グリーンも交えて3人でね)。



映画から2年後…こちらは2000年、今から7年前の二人のツーショット。
物語を離れれば、当然ながら隣に並んでも引き立て役か?というアチャーな差は無い(気がする)。



でもって、こちらは今年のアカデミー賞授賞式での二人のツーショット。
おお!今やトッチャン坊や風味となったライアンよりもイケてるんじゃないのか。なんつて。
いや、勝ち負けなんかはありゃしないってことはわかってるけど。どっちもそれぞれ魅力的なんだけど。
でも、なんというか…このツーショ見た後だと、なんだか「54」も安心して観られる気がするんだよね。
上手く説明できませんが。