岸見一郎「数えないで生きる」

最近物忘れがひどくてちょっとヤバいな、と思っています。
図書館で予約を入れておいた本を借りてきたのですが、一体全体なんでこの本を予約したのだか、全く思い出せない。記憶にないのです。
私は新聞やネットを見て気になる本があったらすぐに図書館で蔵書検索をします。置いてあれば貸し出し予約を入れておきます(そうしておけば用意ができ次第メール連絡が来る)。
でも、この本を予約した経緯が思い出せない。Twitterのつぶやきか新聞の書評、もしくは広告を見て読んでみたいと思ったのだろうけど…どこで何を目にしてどんなところに興味を持ったのだろう?「どこで」はともかく、自分のアンテナが何にひっかかたのかさえわからないというのは、ちょっと怖くなるほどの忘却です(汗)。
きっかけがわからないまま、とりあえず読んでみました。

 母親の子への接し方に対する考察や、孤独に関する思索、人生は不可逆的なものであるがゆえの過去と未来の捉え方、思い通りに行くことなどない人生における美しい時間の存在…など、様々な考え方が参考になる一冊でした。読後、心が軽くなり、思考の幅が広がった気がした。
ちょっと目からうろこだった部分がありました。

「現在の生活を暗たんとしたものに感じても、将来に明るい希望なり目標なりがあれば、それへむかって歩んでゆく道程として現在に生きがいが感じられうる」という神谷美恵子の言葉を、岸見氏は「未来に希望が持てなければ生きがいは感じられぬのか」と、懐疑的に分析をし、三木清の言葉を持ってくるのです。曰く「希望を持つことはやがて失望することである。だから失望の苦しみを味わいたくないものは初めから希望を持たないのが宜い、といわれる。しかしながら失われる希望というものは希望でなく、却って期待という如きものである。個々の内容の希望は失われることが多いであろう。しかも決して失われることのないものが本来の希望なのである」。そして、結論として、岸見氏は「この本来の希望が存在としての幸福である」「希望を未来に結び付けなくてもいい。「今」幸福で「ある」ことそれ自体が希望なのである」と、まとめるのです。
わかりやすく言えば「未来のために現在を犠牲にする中に真の希望は無い」といったところでしょうか。
これは近年、私自身も実感として感じていたことです。
若い頃から夢見がちで漠然とふわふわしたことばかり心に描いて未来に期待するばかりだった私が、「今楽しめない夢などいつになっても叶わない」と、気づいたのです。未来は、「今」の成れの果てでしかない。
「夢」とは、艱難辛苦を乗り越えてやっとたどり着く場所ではないのだ、という気づきは大きかった。生きる姿勢が変わるほどの、思考の転換でした。
たとえば結果が先々にわかるものであっても、今歩んでいる経過事態を楽しめていることが大事なんだと、今では思っています。今、心が豊かに躍動するからこそ、来るべき未来に希望がある。たとえ道半ばで倒れても、結果が伴わなくても、過程を生き生きと歩んでいれば、きっと絶望の淵に沈むことはないでしょう。

とはいえ、私もまだまだ数えてばかりの人生です。数えないで生きる境地にはなかなか行けそうにない。でも、数えないで生きるという生き方もある、という選択肢があるのとないのとでは雲泥の差なのです。
こういう本をたまに読むと、人間には哲学が必要だなぁと、しみじみと思います。哲学のあるなしで、人生の彩りは大きく変わる。人生は、目に見える物質や、立場や、数字で判断できるものではなくて、では何を拠り所としたらいいのか?というのを、考えるきっかけを哲学は与えてくれる。学校の授業で本当に必要なのって哲学なんじゃないかと思います。