不完全な死体として

この数ヶ月、身内が生まれたり亡くなったりしたせいもあって、いろんなことを感じてしまっています。
人が生きることとは?人生の意義は?時間とどう向き合ったらいいの?私はどこに行けばいいのだろう?
みたいなのをあれこれと。イイトシして青少年みたいだけど。

人は生まれるし死ぬし、人生には「時」があって、どんどんどんどんそれは過ぎていってしまう。
本当に、あっという間に私たちは霧の彼方へと去ってゆく存在なのかもしれません。
人は生きるか死ぬかといういわば黒か白かという区分の中に存在しているのではなくて、常に死へと向かっている過程の途上にある存在で、毎日少しずつ死んでいるんだということにフト気づいたりする。
グラデーションみたいに、徐々に「可能性」という名の色が薄くなってゆくのよね。
「人は不完全な死体として生まれてやがて時間をかけて完全な死体になる」という意味のことを寺山修司が言ってましたが、まさにそう思う。(どうでもいいけど寺山修司は私にとって死の先生のように思えます。葬儀に佇んで思い出すのは寺山の詩歌ばかりでした。)

普通に生きていると、死への実感は持ちにくいものかもしれないけれど、死という現象に先んじて、「人が生きることはすなわち二度と元には戻れない道を歩くこと」だというのを、観念でなくて本当に身に染みて感じるとイキナリ愕然とします。
「なんとなく続くような気がする今日と同じような明日」ってのは錯覚であって、しかもそれはある時ふいに(いろんな形で)断ち切られるものだ…ということを、あんまり忘れてない方がいいのかもしれない。
もっと真剣に、生きることを時間というものと絡めて常日頃意識していた方がいいんじゃないかと。
自分の可能性が断たれたあとにそれを痛感するような人生はツラすぎますもん。
「光あるうちに光の中を歩め」ってね。

自分の本当にやりたいことってなんだろう?とか、私の使命とはなんだろう?とか、もうちょっと若かった時期にはそんなことを真摯に自問自答していたけれど、ある程度の年齢になってからはそういうことを棚上げして低きに流れるようになった気が、我ながらします。
そんな必死なことばかり考えていてもしょうもないし…なんて言い訳しながら、怠惰で不真面目な時間を平気で過ごすようになっている。
でも、そもそも人が生まれてくるときに何も負ってきてないはずはないんですよね。
何かやるべきことがあって、私たちはここにいるはず。
それは一人一人のレベルでは何も見えないほどの小さなことなのかもしれないけど…でもやっぱり「いいじゃないの、楽しければ」って生きてくってのは多分違うんじゃないかなーとは思う。そんな個人の欲望レベルで生きてていいのか、と。意志的に欲望を追求するならまた話は別かもしれないけども。
後悔しないように生きるとはすなわち、そこに気づき、脱却することから始まるのではないかと思ったりもします。何かを成しえるかどうかよりも、自覚のありかたみたいなことで。

ま、こういうことを思ったり、また、正反対のことを思ったり、人間ってのはその場その場の状況によっていろいろ物思いも変わるし、勝手に盛り上がったり醒めたりしちゃうものなので、ホントは何もわかっちゃいないつーか(^^;)、エラそうなことは何も言えないんだけども。
でも、探すことだけは続けるべきだ、とは思ったの。この何ヶ月かの、いろんな体験の中で。
自分の人生の意味を探し続けることが肝心なんだとね。今はまだ人生を語らず。…って、最後は吉田拓郎でシメてみました(^^;)。

なんかもう、ヘンな説教みたいな話で胡散臭くてすみません…。
はやく春が来て欲しいです。
春になったら少し気持ちが軽く、前向きになれそうな気がする。