換骨奪胎の果てに

昨日の表題にもある、なんとなく使いがちなフレーズ「昭和は遠くになりにけり」。
「明治は遠くになりにけり」という有名なフレーズをもじったものなんだけど、これって、中村草田男の句


「降る雪や明治は遠くなりにけり」


からきている、というのがこれまで私の持ってた知識でした。
でも、昨日ふと調べたところによると、この句は「剽窃の疑いあり」とされているらしいのです。
無名の少年俳人、志賀芥子(しがかいし)の作品


「獺祭忌明治は遠くなりにけり」


をパクったという噂がある。

ちなみに獺祭(だっさい)忌とは子規忌のことで、9月19日。秋の季語です。
獺はカワウソのこと。カワウソは自分の獲った獲物を身の回りに並べて置く習性があるんだそうです。それがまるでお祭りみたいな様子なので、獺祭と言われるようになったと。
子規もまた読みかけの本だの書きかけの草稿だのを身の回りに(まるでカワウソが獲物を置くように)置きっぱなしにしていたので、獺祭=子規となったのだそうです。
閑話休題

 

少年俳人志賀君の句は大正末期の作で、草田男のものは昭和6年のもの。時期的にはわりとあいている。相手は無名の少年俳人。新聞投稿の句だったとか。
草田男は、これならパクってもバレなそう…と踏んだのか?
有名な古典籍からリスペクトとかオマージュ的に引いてくるならいざ知らず、無名の少年の句を…と思うと、どうにもこうにも不愉快な感じが拭えません。
どうしてもひとつパクった奴はいくつもパクってるだろう、って思ってしまうし。ろくでもないな、って感じ満載。
そう考えると、たとえ一度きりの出来心だったとしても、失うものの多い愚行です。
愚行なんだけど…単純に芸術性を論点とすると、また別の視点が生まれてくるのを否めません。
そこが芸術の怖いところで、道徳的に悪いことでも芸術的には優れている、という悲しい矛盾というものが存在する。

ここでふと私が思い出すのが寺山修司です。
寺山もよく剽窃の噂があった。それを検証している本もいくつも出ています。
でも、剽窃元となった作品と寺山の作品を比べると、寺山の作品は独特の世界観があって、ネタ元の作品よりも断然ひきこまれるのです。圧倒的な凄味がある。
剽窃までして、という卑しく寂しい行為さえ、世界観の表現に一役買っているような気がするほどなのです。
それはこの草田男と少年俳人の比較にも言える。
よりイメージしやすく、世界観をとらえやすい表現はどちらだろう、と言われたら、やはり草田男の作品なのです。バシッと美しく整い、心深く染み入ってくる。作品のデキが全然違う。
寂しいことですが、芸術は、アンモラルなものでもあるのだという本質がよくわかる事例です。

寺山の件については以前、ここに詳しく書きました。

freakyflower.hatenablog.com


なぜ剽窃作家なのに寺山が好きなのか、を自分なりに解析しています。
勘違いして欲しくないですが、剽窃を許しているわけではありません。唾棄すべき行為だと思っています。品性下劣だと思っています。
でも、その行為(そしてその行為をする人間性)と、作品の評価はイコールではない、というのも悲しいかな、事実だと思うのです。
芸術というものはある意味反社会的なものなのかもしれません。「反」というより、「無」かな。現実世界から離れた、独特の次元で測られる、極めて自由な境地にあるもののような気がするのです。