虚構の現実に生きる人

この何日かでテラヤマの評伝2冊読みました。

虚人 寺山修司伝 (文春文庫)

虚人 寺山修司伝 (文春文庫)

虚構地獄 寺山修司

虚構地獄 寺山修司


私にとって寺山修司は主に韻文作家として中学生の頃からの憧れのヒトで、永遠にたどりつけない珠玉の文学者です。
が、彼は、実に多くの批判と中傷にさらされてる人でもあります。(批判者の言説には検証の余地がありますが)
この2冊の評伝は、テラヤマの「欠落した部分」をご丁寧に拾いながら、好奇に満ちた寺山像を伝えています。
どっちが先でどっちが後だかわかりませんが、この2冊はエピソードの取り上げ方が似ています。
同じような証言が並んでいる。
不思議だ。
ま、一人の人間を調べていれば行き着く取材先も同じになるのだろうケド。


「虚人寺山修司伝」は、テラヤマのスキャンダルを暴いて「どうよ?これ。ヤダよねー」と言ってる本です。
著者の目線が意地悪なので、インタビューを受けた人の受け答えなども(お気の毒ですが)意地悪に聞こえる。
寄り集まってはヒソヒソと近所の「変わり者」の悪口を言っている田舎の前近代的な人間集団が持つオーラに溢れています。
丹念な取材も、暴露記事を書く野次馬根性ですすめているんじゃないかと思うくらい。
加えて、非常に読みにくい。時系列も登場人物もバラバラです。
真実(と著者が思い込んでいるもの)を暴き、天才と呼ばれた男を地に落とすためのセンセーショナルなルポを書いたつもりかもしれませんが、内容からも文体からも、このヒトはとても文学から遠いなぁという印象です。


「虚構地獄寺山修司」も、同じようにテラヤマのスキャンダラスな部分を暴いてなんやかや「分析」しています。
が、こちらはまだ、それが彼(と彼の文学)にとって、哀しき必然だったことを著者が理解しています。
「テラヤマは確かに感心できない行為もした。けれど、それはどうしてだろうか?」というところから始めている。
その「どうして」に、物語性を見出し、それを楽しんでいる。
文学者の人生そのものも文学である、という感じが伝わってくる評伝です。
文章もすんなりと読めるし、物語としても面白い。
意地悪度は前者より低いので、取材先の証言者も良心的に見えます。
まったくもう、何かを発言したとして、それを文章に起こす者の心持ち次第で証言者個人の印象まで激変するからビックリだね。
言葉って怖いなぁ。


どんなに模倣をしても、剽窃をしても、虚実混合の作品で読む人を騙し続けても、テラヤマには誰にも真似できない世界がある。
そう、誰にも。
文学においては、それが全てだ、と思う。


芸術における作者の人間性は大事だ。
ろくでもない人間が魅力的な文章を書いていても、どこかに「ろくでもなさ」は滲み出る。
でも、テラヤマの場合は、その人間性と作品は絶妙なバランスを持って、同時に存在している。
ろくでもなささえ、物語になる。
テラヤマが品行方正でいい人だったなどという幻想はもっていないし、人間的にどうであったかは知るよしもない。
でも、これだけは言える。
あれをマトモな人が書けるわけない。
あれを書くのは哀しい人。
そして、天才!


15歳の夏に出会った彼の詩で、私の世界は変わった。
その男が穢れていると言われても、どうしようもない。
そういいたいヒトは言えばいい。そのことに何か意味があるのなら。
私は信じるしかない。
テラヤマ自身ではなく、彼の中の「詩」を。