『長安二十四時』完走

とうとう終わってしまった。
怒涛の二十四時間(全48話)を駆け抜けました。
終幕は心に残る名シーンでした。最後の一言に滂沱として去り行く者たちを見送りましたよ。

ああ…明日から私はどこへ行ったらいいのでしょう…。
心がポカーンと宙に浮いている。
李必と張小敬がいなくなった長安城の黄昏を、一人ふらふら彷徨い続けそうです。

以下、総括感想書きます。
がっつりネタバレしてますのでご注意ください。
このドラマは本当に本当に!(大事なので二回言う)素晴らしい作品なので、できれば一人でも多くの人に見てもらいたい。未見の方は今すぐツタヤに駆け込んで欲しいほどです(ツタヤの回し者ではありませんが、私はツタヤプレミアムでDVDを借りて見ました。配信しているところもいろいろあります。そこは便宜や懐事情とご相談の上…)
これから見る人にはネタバレを読んで欲しくないのですが、私は今の気持ちを書きたい。どうしても!語る相手もいないので、ここで一人語りをしない事にはおさまりませんから。
ということで、一応断っておきます。
ちなみに物語のあらすじや解説などは一切書いていません。それは多くのサイトに載っていますし、私が書かずともよいものなので(ゆえに何が何やら状態で、あまり参考にはならないでしょう。ただネタをバラしてるだけっていう…)。

 

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この物語はたった一日のできごとです。けれど、そこに至るまでには、登場人物それぞれの人生が折り重なって関わりあっている。物事は単純ではなく、一日は、一日にしてならず、なのです。
張小敬の「24時間戦えますか」な活躍ぶりはものすごいものがありました。
総活動量いくつだろう?とんでもないですよ、超人で。しかも満身創痍ですからね。指の先一本切り落としてますが、その痛みだけでも相当なもんよ。でもあれだけのバトルを休む間もなく続けるのだから「五尊閻魔」のあだ名も伊達じゃない。
張小敬の信念は、無辜の民を守ること。長安を守ること。大切な”家族”を守ること。守るために戦い抜くこと。それが、兵としての自分の存在意義なんですよね。守れなかったら己の価値などない、と考えている。だから何が何でも戦うのです。

この事件を引き起こした犯人もまた「己の存在価値」を守るために戦っていたのだと、最後の最後に明かされます。
靖安司の火事で焼死したはずの徐賓の遺体が別人だと判明した時から、徐賓が怪しいのはわかりました。でも、さらにその上に”本当の”黒幕がいる、と思ってた。
林九郎?太子?どっち?…なんだか雰囲気的に太子っぽいなぁ…林九郎はあからさまに太子を陥れようとしているから、きっとフェイクだろう。李必も太子を心から信じてはいない様子だし…などと考えていましたが、違いましたね(太子、すまんのう)。
事件の流れを見てきた誰もが、「一番の黒幕は誰(どっちの勢力)だ?」って思ってたんじゃないかな。
皇帝も、張小敬も、最後の最後に徐賓に尋ねましたからね。
「誰に頼まれた?」と。
徐賓にとってはそれこそが絶望の言葉だなんて、誰も知る由もない。視聴者もわりと理解できないままだったんじゃないだろうか。「え?そんなことで?」という感じ。
徐賓の最初から最後まで誰にも理解されぬままだった…という孤独が、すごい衝撃でした。
誰も予想しない人間が予想しない理由でこんな大それた犯罪を犯す。
最後に張小敬が尋ねた一言は、この物語のキーワードです。
長安の民のことを考えたか?」
尋ねられた徐賓は、「もっと先のことを考えよ」と言います。「小さなことに気をとられるな。鯤鵬は羽を広げて九千里を行く」と。(「鯤鵬」=大魚の鯤と大鳥の鵬。 転じて、非常に大きなもののたとえ)
どんな理想論を掲げようが、朝廷を恨む理由を持った多くの人たちを動かして、彼らの犠牲の上に己の欲望を満たそうとした徐賓は、民のことなど何も考えていない朝廷と結局は同じだったということです。
いやむしろ、民の犠牲に気づかない皇帝よりも、民の犠牲など当然で、その上に未来があると信じる徐賓の方が闇が深い。心の底から彼はそう信じているのだから、怖いです。(ちなみに皇帝は民の犠牲に気づいたらそれをしっかりと覚えておく人でした。第8団の兵士の名前を一人一人挙げた時の衝撃。さすが大唐の皇帝!と感動した)
徐賓の考え方は、知識階級の歪んだ価値観だとか、病的な自己顕示欲だとかを当てはめて切り捨てることもできるけれど、こんな人間が出現してしまう当時の官吏登用制度の闇というのもあったようです。血縁や身分が優遇される貴族の専横がまかり通り、科挙で選ばれた各地の秀才は冷遇され、頑張っても八品どまりだったとのこと。能力よりも家柄や縁故が優先されるコネ社会。徐賓もまた、そういった環境が生んだ犠牲者の一人なのかもしれません。

それにしても、実際に徐賓が黒幕だとすると、疑問点が山積みだなぁ、という感じは否めない。いくつも「想定外」があるんですよね。
たとえば、伝令の陸三(龍波の間者)に殺されそうになったのはどう説明するの?下手したらホントに殺されていたかもしれないじゃないの。いやいや、絶対にそれ計算に入ってなかったでしょうよ。…っていう、そんな件はあちこちにある。
徐賓は「黒幕」というほど、それぞれの実行者と直接関わってはいないんですよね。
いわゆる「風が吹けば桶屋が儲かる」の諺どおり、要所要所で風を吹かせただけなんですよ。コマとなる人物をチョイスし、うまく近づいて必要に応じて助言をしたり、煽ったり、必要な動きを促したりして刺激を与える。複合的にそれらが動いて歯車が回れば、徐賓の頭の中で描いた精緻な計算上では、彼が皇帝を救う者となり、能力に見合った役職に就ける…はずだった。そして彼はそれは国のためになるとマジで考えていたのです。
でもそんなの実際は無理。計算通りに人間が動くはずがないものね。
物語が佳境に差し掛かるにつれ、コマとみなされ利用された人たちの人生がどんどんあらわになってくる。その苦しみや悲しみ、家族や友を愛する思い…。彼らは何のために戦い、なんのために死んだのだろう?と思わずにいられない。

「なんのために死んだのか?」は、「なんのために生きるのか?」と表裏一体です。
張小敬の無言の奮闘の中にその答えがある。
張小敬はたった一晩で多くの人間の命を奪いました。行く手を阻む兵士たちに「殺したくないから、そこをどいてくれ」と何度も叫びますが、命令を受けた兵士は退くことをしない。そしてみすみす死んでゆく。殺すほうも死ぬほうもそこに義などありません。上の者の命令に従わなければ生きられない世の中の悲しみだけが心に深く残る。

このドラマ、ぞっとするほど人が死ぬんですよ。
いつもだったらもうそれだけで気持ちが萎えて見る気が失せてしまうのですが、それでもなぜか踏みとどまれる…どころか、その先の景色を見たいと願う気持ちになるのは、多くの無辜の民を救うために身を賭して戦い続ける張小敬の姿に打たれるからなのです。
「身を賭して」ということは、その手が尋常じゃなく汚れるということなのです。誰も選びたくない修羅の道です。でも、それを丸ごと引き受けて、それでも長安を守る張小敬の姿は、まさしく「太陽」。希望そのものなんですよ。

それにしても、なんでラストシーンはモノクロだったのだろう?
意味があるなら、それを知りたいものです。私にはその意図が読み取れず、最後になってちょっと「作った感」が出てしまったような気がしました。いや、ステキなラストシーンだったことは確かなんですけどね…
音楽も唐突だった。急にメロドラマ風な曲が…と思ったら、終劇後画面が暗転するなり「特別感謝作曲家 村松崇継(日本)先生」ってテロップが、ドーンと出て、びっくりしました。
ラストシーンが終わってすぐですよ?長大な物語の、最後の大事なところで、特別に日本人作曲家個人に謝辞を出すことに少なからず動揺しました。村松さん、全編の音楽担当でもないですしね。「え?なんで?」って。
これは、深い礼の心を中国のクリエイターたちが抱いてくれている、ということなのでしょう。日本版だからということで入れてくれたのかもしれませんが、その心遣いの細やかさに恐縮しました。私ごときが何を言う、ですが。

このドラマを見ると、中国エンタメの現在地が驚くほど高みにあることがわかります。
時代考証を綿密に再現したセットや衣装の素晴らしさはもちろん、精緻で飽きさせない脚本や、役が乗り移ったような俳優たちの迫真の演技など、クオリティの高さは半端じゃない。
でもそれ以上に凄味があるのは、作品全体を貫く哲学です。このドラマには明確な意思がある。為政者や権力を痛烈に批判し、真の人間のあるべき姿とは何かを追求する気概が作品の中に込められているのを感じます。それも、大上段に構えず、声高に主張せず、登場人物の行動によって、エンタメの面白さを失わずに万人の腑に落ちるように知らしめるという、高度な表現方法で。
中国には検閲があるので、エンタメ作品であれどもあらゆるところに細心の注意が必要だと思います。そのある種の「縛り」がこうした緻密な作品を生むのかも…と思うと、物事には功罪というものがあるのだなぁと感じますね。
長い歴史の中で培われた思想哲学は、どんな政権が国を動かしていても脈々と個々人の中に組み込まれてゆくのでしょう。いくつもの権力が入れ代わり立ち代わり国を統治してきた中国だからこそ、基軸を国家の価値観に置かず、人の道を説いた思想哲学に置くことを教養とする価値観が揺らがずにあるのを感じます。(これは『大明皇妃』を見た時にも感じました)

最後に、ちょっと興味深い話題を一つ。
いろんな人の感想を読みにネットを回っているうちに、これは!という考察に出会いました。ドラマ終了時から、ずっと囁かれていたようですが、「やっぱり本当の黒幕がいる」という説です。
そりゃ、そう考えるのが常識的ですよねー。そうであれば徐賓の行動の「想定外」なことなども、説明が付きます。徐賓も誰かのコマとして使われていた側だったとなれば、全部を把握しているわけではないのでね。(自分は天才!と信じている徐賓には許しがたいことだと思いますが)
ヒントは「薩珊金貨(ササン朝ペルシャの金貨)」です。
龍波も徐賓も大量に持っていたこの薩珊金貨は、唐では流通していないものです。この金貨の出どころはドラマの中でも結局明らかにされませんでした。そのことには私もモヤモヤしていました。どこからもらったお金なんだ?しかも使えないお金を隠し持ってるなんて…?って。
これを「本当の黒幕」が彼らに渡していたとしたら…それが、こののち(10年後)に起こる「安史の乱」の首謀者:安禄山サマルカンド出身で、ソグド人と突厥の混血ですよ!いかにも薩珊金貨で買収しそうじゃない?←濡れ衣ですスミマセン(汗))を示唆しているのだったら…!!
…と来れば、めちゃくちゃ魅力的な解釈です!そうなりゃセカンドシーズンの幕開け必至じゃないですか?!
張小敬もどこぞに旅に出てしまったし、李必は山にこもってしまい、檀棋は玄宗皇帝と楊貴妃の傍で女官をしています。しばしの別れはいずれの再集結を匂わせているような…(?)。
まぁ、それに関しては「史実を曲げることは許されないので、安禄山の件は今回の”匂わせ”だけで終わるでしょう」というのが、訳知りの人の見解ですが…今回のように名前をちょちょいと変えて「史実じゃないですよー」のフリで、そこんとこはどうにでもなる気がしなくも無い。大いに期待したいところです!

ちなみにここで史実を持ち出してみますと…後年、姚汝能が書いた「安禄山事蹟」という書物の中に、「楊国忠を射殺した騎士」として張小敬なる名前が出てくるのだそうです。そして李必(史実では李泌)はほどなくして長安に戻り、宰相となります。檀棋の守る楊貴妃は、安史の乱で命を落とします。
さぁ、さぁ、どうなる?!

この長いドラマの感想はひとつの切り口だけでは終わりません。
思うところをこれからもおいおい書いてゆきます。まだまだ私はここらへんをうろうろし続けますのでw