他人の人生は想像の外

髪型を変えて嬉しくなって変な記事上げましたが冷静になったらめっちゃ恥ずかしくなったので削除しました(お目汚し失礼)。
いやホント、久しぶりに美容院に行って浮かれていたのです。って、こんな僻地のブログでのことなんかどうだっていいんですけど、やはりメタ認知というのは大切だと痛感しました。恥を知る、という意識が薄くなるのも自我の暴走の一つか。ああカッコ悪い。

昨日の小田急線刺傷事件の犯人が、犯行理由として「幸せそうな女性を見ると殺したくなった」って言ってたのを聞いて、美容院帰りの私は犯人の主観に該当したかもしれないとふと思いました。
舞い上がっちゃって「幸せそう」に見えたろうな。いや、実際幸せでしたけどね。久しぶりに小ぎれいになって、勢いでブログに写真載せるほど嬉しかったんだもん。でも、そこに至るまでの私は、2年も美容院行ってないボサボサ髪をひっつめにして、化粧もしてなくて、ド近眼の瓶底眼鏡をかけてPCに張り付いてるという…たぶん傍から見てもパッとしてない、たぶん「幸せそう」って感じには見えない雰囲気だったのよ。たぶんあれならこの犯人には狙われてない。でも実際は、風呂も入らず美容も気にせず、自分の内的世界に没頭している時、私は一番幸せなのです。
「幸せそう」なんていう根拠のない主観は、”きれいな身なりで笑顔でいる”くらいのわかりやすさに基づいたパッと見の判断でしょう。なんという短絡だろうか。
実際はすごくツラい毎日でも、折れそうな心を奮い立たせて身綺麗にして、負けまいと顔をあげて笑顔で頑張ってる健気な人は世の中たくさんいる。逆に、ショボいツラしてボーっと歩いてる人だって、ホントはめっちゃ幸せかもしれない。その時だけの外見の様子で、しかも他人の主観で、その人の人生のなんたるかなんてわかるはずがない。想像の外です。外側から見ただけでわかるほど人生は単純なものではない。
だから、逆に言えばどこかの誰かにどんな風に思われても、そんなものは的外れだということです。本当のところは本人しかわからない。他人の判断に左右されることがいかにバカバカしいか。そんなものはたいていが誤解と誤認と濡れ衣の塊です。気にすることなんかない。
だからと言って、完全に他者の目(=社会的視線)を無視してつき進んでも、自分の立ち位置がわからなくなってしまったりする。社会とはバランスによって成り立っている部分も大きいから。
そういった時にあてになるのがメタ認知(自分の中の客観的視野)なのでしょう。思考の途中で立ち止まったり、考えたりすることで、少し俯瞰して自分を眺めること。舞い上がって暴走しそうな時こそ、この視点は大事だなぁと、自省も込めて感じています。