「いつか」という希望と現実

私は約束がニガテです。予定とかね。未来の自分を縛ることがダメ。
昔っから自分のスケジュール帳に予定を入れるのがすごく嫌いで。
何か予定が書きこまれているとどうしてもそれに縛られ、ソワソワし、緊張し、気持ちの負担となり、その予定をブッチすることを考え始め、実際にドタキャンすること度々という…実にダメな人間です。
約束に伴う時間経過で気分が変わってしまう。
気分の変化はとても速い。そして私はその変化を圧して行動することがとても苦手なのです。

約束が苦手な私は、不確かな「いつか」という言葉が大好きです。偏愛の域です。ほぼ座右の銘の如くです。
「いつか」は、内実の伴わない、けれども夢のある言葉です。いわゆる「可能性の示唆」。不確定な未来への希望です。
私は他者にもよく「いつか○○しようね」といった言い方をします。
遠い約束のような、単なる願望のような、「いつか」で人との縁を結ぼうとする。
そんな漠然とした絵空事のような言い方ですが、決していい加減な気持ちで言ってるつもりはないの。
「気持ちはあるけど、約束はしたくない」ゆえの「いつか」なのです。
「気持ちはある」ということを、強く伝えておきたい!それだけは!!という思いに溢れているので、誤魔化してテキトーに言ってるのとは違う(と、自分では思っている)のです。
でも、同時に「私はダメ人間なので、結局、先の約束は何もできないんですゴメンね」という意味をそこに全力で含ませています。

年をとってきて、次第に「いつか」が訪れないような気分になる時があります。
「いつか」という言葉の向こう側にあるはずの茫漠と広い未来は、もう私には望むべくもなく…残り時間はどんどん短くなっていくんだな、という感覚。
「いつか」ではなかったら、どうすればいんでしょう。「今でしょ!」ということなんでしょうか。
「今を生きる」。”カーペディエム”ですね。
本来人間は生きている時間全てが人生の本番で、一度しかない時を過ごしているのだから、今という時間を生きない限り、当事者として人生を生きられないのは道理です。
が、私の場合、なかなかその事実を直視することができないんですよね。ずっと猶予期間のような気がしている。モラトリアムが終わらない。人生を棚上げしてしまっている気がします。自覚がなく、受け身のまま生きてるということです。
もういい加減、そんなんじゃダメだ、本番に生きているという自覚を持たなくては!と思うのですが、気持ちの上で逃げてしまう。
「人間五十年」と謡われた時代だったらとっくに終わってる年齢なんだから、もう腹をくくって今を生きなくては。「いつか」という言葉とは決別しなくては。…と思うのですが、そう思えば思うほど「いつか」という言葉の夢のあるふわふわとした魅力から離れがたく感じるのです。
私の夢の在処が「いつか」という時間にあるのなら、もうそれでいいじゃないか、という気持ちにもなる。たとえ何事も無しえずに終わっても、夢見て終わるならそれでいいような気がしてしまう。
でもたぶんそれではマジで何も成しえないのだろうな。
難儀だなぁ。

追記:今調べてびっくりしたけどこのブログで「いつか」という言葉に言及している回数が驚くほど多い。しかもことごとく同じ論調(「いつか」じゃダメだ、今を生きなければ的な)。ホント成長してない。悲しいほど未熟者。え、大丈夫なんかな自分。このブログって成長の記録ではないのね。人は(っていうか、私は、か)いかに成長しないか、の実証でしかない。やってる意味あるんか。