物言わぬ言葉

「人はけっして他人のために書くのではないこと、何を書こうとも、そのことでいとしい人に自分を愛させることにはならぬのだということ、エクリチュールはなにひとつ補償せず、昇華もせぬこと、エクリチュールはまさしくあなたのいないところにあるのだということ、そうしたことを知ることこそが、エクリチュールのはじまりなのである。」

ロラン・バルト「恋愛のディスクール・断章」より


言葉は、それを表出した途端に伝えたかった意味を失い、まったくの孤立した記号として投げ出されてゆく。
たとえば、私が「悲しい」と書いたとしても、その悲しみは誰にも伝わらないし、どれだけ誰かを愛しているかを書いてもその想いを伝えることはできない。
これをロラン・バルトは「わたしには自分のことを書くことができない」という表現で言う。
何かを伝えたいと思ったらできるだけ言葉を尽くすしかないけれども、それでも齟齬が生じるし、ヘタすると言葉を尽くせば尽くすほど言葉そのものが無意味になってゆく場合さえある。
言葉は空疎だなぁと思う。
それでも言葉にこだわっていたい。言葉で自分が成り立っているような気さえする。


「愛」という言葉を使わずに、「愛」を伝えたいものです。
そしてそれが文学のはじまりなのだと思う。

恋愛のディスクール・断章

恋愛のディスクール・断章


この本は、大学時代に購入したものです。
学生時代にはわからなかったロジックが、このトシになっていろいろと「実感をともなって」わかるようになってきているのが嬉しいですね。
今の私はハタチの私より確実に頭がイイな(笑)。
たぶんそれは、エクリチュールでしか自己が存在し得ない「ネット社会」という新しい天地の出現に拠りますね。
バルトの時代には無かったこのヘンな社会で生きるために、私はエクリチュールを肥大させ、生きる術を学び続けているのだと思います。
パロール話し言葉)の世界にある絶対的な体温が感じられないネットの世界で、それはどこまでほんとうの私なんだろう?と思わなくもないですけども。