グダグダと書く言葉の中にこそ



「二つの朝」



美麗島東南海上午前五時
まだ明けやらぬ空の下
彼は海へと向かう
藍色の凪に身を漂わせ
唇に小さく歌を乗せながら
新しい朝の光を待っている


極東
朝まだき春の曇天
私は朝靄の白い窓を開く
マフィンとバターとオレンジと
届いたばかりの新聞の匂い
馴染んだルーティンの輪を回す


空耳のように
波の音が聞こえた


すぐそばで


湯沸しが音を立て
日常が溢れだす


交わることなく
触れることなく


何度生まれ変わっても
私たちは別の朝にいる
こんなにもあたりまえに
未来永劫離れたままで



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今日は詩で恋心を綴ってみましたー(汗)
俳句よりも詩の方が自由だし気負わないしで楽に気持ちをあらわせる気がする。
けど、読んだ時に思い浮かぶ風景の濃度が違うような…?
詩は、言葉があっさりと過ぎてく感じ。
(それはアタシが下手だからなんですけど、そういう話だけでもなくて)
例えば私の好きな寺山修司は、詩より断然、短歌や俳句の方がステキだ(と、私は思ってる)。
短い言葉の中に、身が震えるほど、もう、怖いほど芳醇な劇場があるかのよう。
たぶん、こっちの想像力の深度の差なんだろうな。


俳句は面白いけどどうもスキルが足らないと楽しめない世界でもあるようです。
以前、(3か月ほど前か?)マッタンの選ぶ「すばる」の句選に出した俳句も全滅でした…。
選ばれた俳句を読んで、なるほどそうかーーと思うところが大きかったので、(巧さを説明されて理解するというふうな)やっぱり年季のようなものは必要なんだと改めて感じましたよ。
詩にはそういう縛りはないからラクでいいやね。
自由だ。しかもわりと年季はあるw
昔の少女は詩(てか「ポエム」かw)が好きで、よく書いてましたよね。私もその一人でした。
中学、高校時代は友達と詩のやりとりをしょっちゅうしてた。
詩だけのノートをいつも持ち歩いてて、思いつくと書いて、気に入ったのができると誰かに送ったり、イラストを添えてうっとりしたりしてた。
巧いとかヘタとかそういうのはどうでもよくて、書くこと自体が快楽だった。
好きな人ができれば詩を書いた。
花を見ても、夕陽を見ても詩を書いた。
いい時代だったなぁ。
スマホ時代の今の子は、詩の書かなさにおいて我らの時代とは大きく違う気がしますね。
お嬢がこないだ70年代〜80年代の「ポエム」文化を羨ましがってて、なんか意外でしたw


韻文に限った話ではないけれど、言葉(数)ってのは、増えれば増えるほど読者の想像力が発揮される余地が無くなるように思いますね。
だからってわけじゃないけど、ブログとかで、短い言葉でなんか暗示的なことをポロッと書いてる人を見ると、軽くイラッとする(爆)。
そもそもツイッターとか(よく言ったもんだよ「つぶやき」とは)。
それってたぶん「思わせぶり」だからだと思う。
文字数が少ない、というのは否応なしにヒトを立ち止まらせる力があるんですよ。
ちゃんと説明されてない言外のさまざまなことを、こっちが想像しないと意味が読みとれない。
べつに知りたいわけでもないんだけど、どういうわけか、「ん?」って立ち止まってしまうのは、人間てのは読んだ言葉の意味を理解しようとするからなんだと思うのね、本能的に。
だから読んだらそのまま頭に入ってくる文章でないと、立ち止まってしまう。
長々書かれた文章を読む気がハナから無いやつはたくさんいるけど、短い文章だったら目に入る。しかも、立ち止まってもらえる。
そういったものの質のいいのが俳句だのキャッチコピーだので、劣化版がツィートだ。
純度の問題、ですね。
純度が違う癖に物理的にコンパクトだというだけで人の目を惹くところは似たかよったか。
私なんか、わりと深く読みとって欲しくないことを書くとき、わざと長文化させますからねw
そうすっと、こっちは言いたいことが言えてストレス解消になるけど、あまりツッコまれずに済むんですよ。長ったらしい文章なんて読む前にうんざりして、読者なんてろくにいない。皆スルーするだろうから。
実はこの文章もそうです。最初に書いたこっぱずかしい詩のインパクトを目減りさせるためにグダグダ長文を添える、っていう作戦(爆)。


ツイッターなんて私にしてみりゃうわごとみたいなもんだし、主張も見解も批評もあんなとこにはないし、何よりも物語がないし、ただ人がペラペラしゃべって流れてくだけの場所だと思っててどうも好きじゃないんですが、その根本には本能的に、こっちが負けたような気分になるから腹立たしい、ってのがあるようにも思うんですよ。
考えて作った文章よりも、放った短い一言の破壊力のデカさのまえに萎える、ってかね。
一言は、一言であるゆえに意味深で、含蓄があり、センシティブで、暗示的である…
……かのような錯覚を、私のような気の弱い人間に覚えさせる。
そりゃもうある種、恫喝に近いとさえ思う。
「言葉を尽くす」なんて真心はゼロなんじゃないかと思う、あのツィートのノリ。ニガテ。
信長の発した一言を、あれこれと考えてはその真意を探る秀吉のような気分になるわけだ。
他人の思わせぶりに翻弄されるのは嫌だ。疲れちゃうもん。


ちょっとここんとこブログを放置したまま日々過ぎていっちゃってるので、お前がブログうんぬん語るなや、って感じですが(汗)、私はブログ(というスタイル)がやっぱり性に合っています。好きなんですよね。
結局のところなんというかな…、ここには言葉を書ける。
言葉は会話ではないから、自己完結する感じでイケる。
自分の場所がある、という安心感がある。
誰かとのバランスを考える必要ないって意味では、ブログこそ本質的には「つぶやき」なのだろうと思います。
そういうところから出てくる、自由で、自分勝手で、ちょっと内面的なものまで垣間見られるようなブロガーさんの記事が好きだなぁ。
ずいぶんたくさんのお気に入りブロガーさんたちがツイッターに行ってしまったのは、返す返すも残念です。