さぁ、お立会い?

我が家は前回、立会い出産でした。今回もそのつもりです。
どうも帝王切開らしいので、ムリかもしれないんだけど。手術となったらべつに立ち会って欲しくはないし(旦那も立ち会いたくはないでしょう…人体を切って血がビューなんてな場になんか)。
でも、とりあえず立会いに備えて、昨日新しいハンディビデオを買いました。今まで使っていたのはとっくに壊れてしまっていたのですが、こういうきっかけでもないとなかなか買うふんぎりがつかないもんですね。
っても、出産の瞬間をファインダー越しに見て欲しくはない(それにスッピンで苦悶している姿を記録してもらっちゃ困る!)んで、分娩時にはビデオは使わないつもりだけど。要は生まれたてのべべを撮っておくためさ。

そーいえば、前のハンディビデオが壊れたのは去年の12月に戴立忍が来日した台湾の映画祭の時です。あの時は本当に各方面にご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした(汗)。
「アタシがビデオ撮るからね~」とかなんとか言いながら、当日ビデオが動かない!…という取り返しのつかない醜態を演じてしまいました。舞台挨拶だのティーチインで自由にビデオ撮影OKの映画祭なんてあまりないチャンスだったのになぁ。返す返すも残念でなりません。
本番にとことん弱く、肝心な時に間抜けなのです。とほほ。

もし立会い出産になるのなら娘にも見せてあげたいんだけど、分娩室のあの独特の空気をどう感じるかと思うと悩みどころですね。助産院での畳の上なんかでするほのぼのとした分娩だったらためらいもなく見せてあげられるんだろうけど…フツーの産院の分娩室って、もろ「医療現場」だもんね。見せたら逆効果かも、とも思う(怖がらせてしまうかも)。

出産というのは子供の誕生であると同時に家族の誕生でもあるわけで、そこで便宜ばかり考えて行動すると後々いろんな禍根が残るような気がします。便宜でなく、情緒的なものを最優先したい。あ、これは産科的なことに関してではないですよ。家族とのかかわりという点について。結局、家族のつながりって情緒のつながりだと思ってるので。そのあり方は各家庭で違って当然だとしても。
人が生まれたり死んだりする時には独特の、ただ一度の情緒がある。そこに臨んでいたかどうかは、心理的に大きいものがあるんじゃないかなーと思う次第。