「代理母」について思うこと(4)

(続き)
「産みの親より育ての親」だというならば、なぜ向井さんは自分たち夫婦のDNAにこだわったんだろう?DNAにこだわる人にこの言葉を言う権利は無いと思うんだけどもね。
DNAなどつながっていなくても(まるきり血がつながっていなくても)、戸籍では「養子」の記述であろうとも、「産みの親より育ての親」という深い絆が築けるのは今更彼女が主張するまでも無く、みんな知ってる。
DNAさえウチらのものなら、ウチの子でしょう?なのになんで「実子」として認めてもらえないのか?という向井さんの考えは、「育ての親」をも否定している気がする。
分娩する親も育ての親も否定し、自身のDNAだけを残そうとする行為…それこそが「代理母出産」というものを希望する人間の本音なのだなぁーと、私は向井さんの一連の発言・行動で認識しました。
でも彼女は以前からずっと一貫して、旦那さんのDNAをこの世に残したかった、と言っているので、DNAレベルの出産、というのは実に彼女の目指すところのものであり、「彼女の思想的には」矛盾は無いんでしょうけどね。それはその人それぞれの価値観なので何ともいえない。
その為にはあえて茨の道を行く、と決めた彼女は、その人生をかけてそこを進めばイイと思うし、実際、風当たりの強そうな道を進むかのような彼女の生き方を見ていると、気の毒に思えてもくる。
代理母とはなんぞや?という問いかけを広く世の中に行き渡らせた功績は大きいと思うし、いろんな意味でエポックな行為をしたのだと思いますが…。難儀だよね。

代理母出産を認めるという意見は世論調査では4割を超えるらしく、それは提供精子による人工授精より容認度が高いそうです。

でもこれは「代理母を利用する側」の意識であり、「代理母になる側」のことは一切考慮してない数字です。
世の中、他人に危険を強いてまで自分のDNAを残したい人がこんなにいっぱいいる。
それって「産みの親より育ての親」なんて言葉はキレイ事でしかない何よりの証かもしれない。
その気持ちはわかるようでわからないようで複雑な気分ですが、そういったごくデリケートな感覚と、代理母出産という具体的蛮行とはどうしても同一線上に描けないのは確かです。

私はどうしても代理母というシステムは嫌悪感があります。
それを子宮を持った人間が言っちゃダメだよ、しかも妊婦が口出しすべきじゃない、という人もいるけど、そういう問題ではないですよ。これはそういった(子供及び子宮を)「持つ者」「持たざる者」というレベルの話ではないと思う。まずそこの狭い個人的欲望の枠から脱してからでないと、冷静に話せない問題だと思います。

「アンタはいいよ。自分の子供を自分で産めて、そりゃさぞかし幸せだろう。そうできない者の気持ちなんてわかるわけない。」と、言われるかもしれない。
でも、私が思いを馳せるのは、そう息巻く側の人間たちではない。今の私と同じようにお腹に赤ちゃんを抱えた代理母の方だ。
産んでもすぐに取り上げられてしまう赤ちゃんを育てている虚しさなんて、計り知れません。
お金を得るための手段としてそれをするしかない女性がいるなんて、あまりに悲劇的。
同じ妊婦であるのに、こんな悲しい人もいるのだと思うと、それをさせている側(しかも子供を欲しいと願う同性なのに)に嫌悪感が湧くのは当然です。
10ヶ月、胎内に命を抱えるということがどんなことか。たとえ生まれても慈しんで育てられない子供を孕んでいる母の気持ちはいかばかりか。自覚ナシでもそれは状況として悲しすぎる。胎児も悲しかろう(胎児だってちゃんとわかってるらしいよ…お腹の中から、何かを感じてるハズ)。
全ての胎教も無意味になり、へその緒のつながりもなにもあったもんじゃないこんなシステム、良いわけがない。
それを言うと、「代理母を頼むような人はお腹の中に子供をもうけたくてもできない人たちなんだから、妊婦や胎児の気持ちを判れというのはあまりにヒドイ!胎教なんてやりたくたってできないんだから。」という意見を言う人がいたりするけれど…そりゃ明らかに違う。
できないものはできない。
だからといって、全てを「できない側の理論」で推し進めていいわけはない。できる者はできない者の加害者ではないし、できない者は被害者ではないんだから。
でも、代理母のシステムを取り入れれば、そこに利害関係が生まれる。「産める者」と「産めない者」の関係が被害者や加害者を生む羽目になる。
「親子なんて所詮DNA」。それが代理母出産なのだ。借り腹は、保育器でしかない。生殖器をモノとして使われる女性を、あなたはどう思う?

ちなみに代理母について、厚生労働省は年内にも国内で禁止する法整備を準備しているとのことです。