ツィマーマンのリサイタル

行ってきました。
えっとー…。


バカンスで訪れた旅行先の土地にどうしても馴染めず、どこに行っても何を見てもどんなもんを食べても思い出すのは故郷の青い空ばかり…。
挙句の果てにはホームシックのあまり涙がキラり。


…みたいな。
たとえて言うとそんな感じでした。

前半のプログラムはそれなりに楽しめたんですよ。
モーツァルトは眠かったし、ラヴェルはよくわからなかったけど、それでも。
問題はショパンです。
マズルカの17番(4つのマズルカは14番〜17番のことです。)とソナタ2番を聴いた時。
この2曲(というか特にソナタ2番ですが)は私の体内ではすでにキーシンの演奏による堅牢な砦ができあがっているのかもしれません。それは否めませんが…だからといって、他の人の演奏を受け入れられないほど心が狭いわけじゃないよ、と、今までの経験から思ってたんです。
この曲に関しては、ルービンシュタインだってアシュケナージだって小山実稚恵さんだってキーシンの演奏とはずいぶん違うけど、それはそれで別の良さがあって好きだし、キーシンじゃなくちゃダメ、というほど自分は盲目的でもないと思ってるんですよ。
ところが、ツィマーマンの演奏を聴いた途端、私はすぐにホームシック(キーさんの音が恋しくて恋しくてたまらなくなっちゃった)に罹ってしまいました。


青いと信じていた空が、赤かった。その「意外」を、美しい、楽しい、と思える場合だってあるんですが、この日の私はそれを「嫌悪」しました。
「…こんなのは2番ソナタじゃない!」と。
3楽章では思わず涙がこぼれそうでした。
曇天が切れ、天から光が差しこむようなあの素晴らしい転調が、まったくのベタ塗りな音の重なりとしてしか聞こえない。ささやく風のような4楽章も、慌しい騒々しさで幕を閉じる。


狭量にも私はそこにあった音が受け入れられなかったんです。情けないですが。
私はこれをずっと俯きながら聴いていました。
一旦、よそよそしくなってしまった音たちは、二度と私の心には入ってきません。私も、意固地になって「これは、違う。」という感覚にとらわれたまま。
なんて不幸な出会いだったんでしょう。
しょうがないけどね、シュミの問題ってことですから。
ちなみにマズルカは特にそのリズムに関して違和感が残りました。拍が遅れるというか…歌いまわしに癖があるんですが、どうにもそれが気になりました。
全体的にはところどころで音を切る表現法が使われていて、それがいちいち癇に障るというのもありますね。


もちろんのことですが、これはなにもツィマーマンが悪いわけではありません。
私には彼の音楽をとらえ共感する能力が無かった。それだけのことです。
だからツィマーマンをどうこういうわけではありません。言える筋合いもありません。

曲目

モーツァルト ピアノ・ソナタ第10番ハ長調 K.330 
ラヴェル 高雅で感傷的なワルツ
ショパン バラード第4番へ短調op.52
ショパン 4つのマズルカop.24
ショパン ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調op.35
(2006/6/4 壬生公民館)


アンコールは無しでした。サイン会もありません。演説も無かったけど(笑)。*1
そういう対応一つ一つにしても、みんなキーシンと比べてしまう。どうしても。
拍手が続く限り何度も何度もお辞儀を繰り返し、何曲も何曲もアンコールを弾いてくれたジェーニャの真心を想う。
それを思い出すとまたジワーッと涙ぐんでしまう。
ツィマーマンのリサイタル聴きに行った帰りの車の中で、なんで「ジェーニャが最高」との熱弁振るってんだ私(哀)。


クールで理知的でこだわりの強いツイマーマンが好きな人もたくさんいるでしょう。ちなみにツィマーマンは信じられないくらい美男子でもあるし。(よく見る写真画像の10倍はキレイでした。しかも透き通るような美しさ!クラシック界イチのイケメンかもしれません。)音楽的にもそれ以外でも、ツィマーマンが魅力的だなんてことは、もちろん私も百も承知ですよ。
でもね、私にはやっぱりジェーニャが一番なのです。
その姿勢も、ソナタ2番も。

*1:2日前のサントリーホールでの反戦演説に賛否あるようですが…私もそれは「(意見を言う)場が悪いんじゃないかなぁ」と思います。インタヴューや記者会見での発言だったら良かったのに、と。誰もがいろんな思想や理想や不満や主張を抱えて生きている中で、しばしそれを棚上げして音楽を愉しむ場所…が、ホールの中だと思うので。そこに予告無く持ち込んではいけないものってあるんじゃないかなぁ…と。