あれから何日か経ち

あの日の悲しみを抱きながらも少しずつ言葉を取り戻し始めたレスリ迷の皆さんの中から、「レスリーを語り継いでゆくこと」の意義を語る声があがっているのを知り、とてもせつなく暖かい気持ちになりました。
そんな心境にまで辿り着くに必要だったたくさんの悲しみと葛藤に、胸打たれる思いがしてます。
ファンの皆にとっても、そしてその周辺にいる私たちにとっても、きっと、今後も変わりなくレスリを愛(め)で、語り、伝えてゆくことができたら、それがやはり一番ステキなことよね。

恋する人の死、というものに私は今まで遭遇したことがありません。
だから、それがどれほどつらいものなのか正直わかり得ていないと思うんだけど、こんな私でも何度か「すでにこの世にいない人」に恋をしたことはあるのね。
芸能人の初恋はジェームズ・ディーンだったし、坂本龍馬に惚れて剣道はじめたりもしたし(笑)。
こういう経験をもつ人はとても沢山いると思う。「後恋(のちごい)」とでも言おうかな(造語ですので深く考えないで(^^;;。)。
その中でも一番「重症」だったのは、チャーリー・チャップリンでした。
あの世界一有名な、喜劇役者チャーリー。
私は彼を「チャス」と呼んでたのですが(「チャス」はチャーリーがデビューしたてに周りに呼ばれていた愛称です)自分の書く日記まで「チャス」と呼びかけるちょっとトんじゃってるファンだったりしました(笑)。

でも、他人に「チャップリンが好きで...」なんて告白すっと、「わぁ、ヒューマン」なんて言われちゃうので、滅多なところでは言いたくなかった。
そういわれた途端に、すでにそこには私が恋してるはずのチャスのイメージは無くなってしまうんだもの。
全然別の人がいるような気がして、それが淋しかったから、私はチャスのファンだということは滅多に人に話しませんでした。説明するのが面倒で、隠してた。
私の好きだったチャスは、多くの人が思い描いているチャーリー・チャップリンとはきっととても異なるのだと思います。それは彼について語られる文章のイロイロが、私の好きな彼とはちょっと違っているから、そう思えるわけですが。(もちろん真摯なもの、事実を正確に書いてくれてそうなものもたくさんありますが、浅いものが多いんだよねあのくらいのスターになると。)
彼の死後、いろいろな人が彼を語り、いろいろな文章があって...でも、その多くは極端に二極分化してるように思える。
つまり、「人道的な天才」というべた褒めタイプと、「いやらしくて偏狭な人」というミソクソ貶しタイプ。
尊敬と嘲笑の二つを、彼は死んでからもずーっと与えられているんです。

亡くなったスターは全て、それが大スターであればあるほど、勝手な憶測とゴシップにまみれて語られてゆくものです。いつまでも、です。
ジェームズ・ディーンだってひどいこと言われていますよ。
同性愛者だった、ってのをネタにした侮蔑や嘲笑にだって、今やもう慣れちゃったし(もちろんそれが真実かどうかは誰にもわかりません。どうだっていいんだけど)。これなんか、パターン的にはレスリーに似てる。マスコミがいかにそれをセンセーショナルに書くか、に血道を上げている感じがしてさ。ヤな感じ。
チャップリンの場合のスキャンダルだって、いわずもがな。もーイヤになるほど語られてる。
スターの性的な話題、ってのはいつだって面白おかしくイヤらしい言葉で含み笑いと共に語られる。どうにもこうにも耐えがたいけど、いつだってそうです。人間の尊厳を汚すのに、そのテのネタって一部では有効なのだろうね。さぞかし記者さんたちは修道士のように清廉なのでしょう。
ましてやそれが原因で自死したという噂なんかあったら、たとえそれが根も葉もないモノだって飛びつくに決まってる。
そんなのファンは到底受け入れられないですよ。(揶揄するためにそれを語り続ける人たちの悪意を受け入れられないという意味です)
だから無視し続けるしかない。
わかってくれる人はわかってくれる、と信じるしかないし、実際その通りだと思うし。わかるひとにはちゃんとわかる。人間も馬鹿ばかりじゃないから。
醜い心根の人が醜い言葉を言ってるだけのこと、と思えばいい。そんな人とはもともと関係ない、とね。

人間は何かを枠にはめて考えるのが好きです。きっとその方が楽だからだと思う。
よくわかんないものはとりあえず枠に入れて考えてしまう。流動的でコロコロ変わるものについてゆくのは疲れるから、「あの人はこういう人」と枠に閉じ込めてしまう。その枠がセンセーショナルなら面白いと思う人だって、たくさんいる。ゲスな人は、そう思うんだよ。
でも、そんな枠なんてもんは大抵が間違いです。
人間、残念ながらそんなトコに収まってしまうほど小さくないもの。
もちろん語られてる一面だって確かにあるでしょうよ。こっちだって何も彼らを清廉潔白だったなんて思っちゃいないし。でも、スキャンダラスな部分だけで一人の人間を語ってしまってはダメに決まってる。

私は、「枠をはずしてその人個人を見てあげられる」というのが、愛情の証だと思っています。
まず枠をはずすところから始めないと。それが人を愛する第一歩でしょうよ。
愛情のない人間が何かテキトーなトコにあてはめて語る全てのものは、ホント、聞く耳をもちたくないですね。

信じられるのは、残された作品そのものを見て感じる自分の気持ちと、彼自身がかつて語った言葉、事実の行動、近しい人が語る悪意の無いちょっとしたエピソード...そして心から彼を愛して同時代を過ごしていた「本物の」ファンの人たちの言葉、だと思います。

きっと、これから先の何十年、レスリーに出会って恋に落ちる人は星の数ほどいるよ。
そのうちの誰かは、今はまだ小学生かもしれない。まだこの世に生まれてさえいないかもしれない。
その子達は、レスリーのことを何も知らない白紙のままやってくる。
でも、確実にやってくる。
その子たちが大きくなって、やがてスクリーンの向こう側のレスリーに恋した時、きっと「同時代」に生きていた私たちを羨ましいと思うことでしょう。

「遠い昔、あなたは確かにそこにいた。輝くような瞳と夢見る心をもって。若き日のあなたには、私は決して逢うことができない。それどころか、今あなたは空の彼方に行ってしまっている。「同時代」でないということが、こんなに悔しいなんて、生まれて初めて感じる。あなたに逢いたかった。若き日のあなたに。」

これはアタシがチャスに夢中だった頃に書いた文。「この世にいない人」に恋しちゃった人間の典型的情緒でしょうね(笑)。
悔しいんだよ。恋した人がこの世の人でないなんて、そりゃ悔しいに決まってる。
そんな人たちに対して、そのスターと「同時代」に生きたファンの人たちは、語ってあげられる言葉を一つでもたくさん持てたらステキだなぁ、と思う。
ほんの小さなエピソードでもいい。「後恋(のちごい)」の人にとってはそれが何よりのご馳走なんだもん。永遠に逢うことの無い人の、かつて生きていた頃の、喜び、笑い、悩み、苦しみを想像するには、こうした「人聞きのエピソード」を重ねてゆくしか方法が無いからね。
それは映画やアルバムを通して感じる顔とはまた別の、チャーミングで生き生きとした在りし日の姿を想像させる「糧」です。
私も、こうして人聞きのエピソードを積み上げて、チャスに逢うために自分を1910年代にタイムスリップさせる「想像の喜び」を見いだしました。

「伝説」となった人に恋するにも、ちゃんと喜びはある。だから大丈夫。
恋にはどんな喜びもある。
恋は無敵です。
時間も、生死も、言葉も越える自由な翼を持っている。私はそう思う。今現在、ここに存在する人にしか恋ができないわけではない。
恋する対象がこの世にいなくても、私たちは眺める風景の中にさえ…月を見ても、星を見ても、野の花を見ても、きっとそこに恋しい相手の姿を想える。
花はまだ咲いている。
皆の心の中にね。それは変わらずきれいなままです。
そしてそれは次代にもきっと咲き続く。記憶はどんどん手渡されてゆく。

私は今日、朝のCX「とくダネ!」と「週刊新潮」によって、2度も嫌な思いをさせられました。
レスリーに関する誤った情報を垂れ流す日本のマスコミに、怒りと失望は尽きません。
でも、そんな醜い心を持った人たちの心にはこんなきれいな花があることすら見えないのよね。気の毒な人たちだよ。彼らの人生には大きく何かが欠落している。大いなる損失だ。哀れむよ。お気の毒!

今は確かに、レスリーのニュースを知った中華明星に詳しくない人(で、私が明星迷だと知っている人)は、この話をふってくる時には必ず「同性愛」のネタを話題にします。その恋愛関係が原因で自死したと思ってる人も多い。っていうかそれがほとんどだし。
「いや、そうじゃないんだよ。彼は病気だったんだよ」といくら説明したって、「同性愛のもつれで」というマスコミに植え付けられた先入観は簡単にはぬぐえない。ろくに知らない人は含み笑いでそれを語ったりするし。もう、悲しすぎる。
でも、ただの話題としてそういった情報を得た人は、そのうちそんなことは忘れてしまうでしょう。人の噂も75日って言うし。だからもう、大衆が何と噂しようがもうどうでもいい。いちいち訂正もしない。疲れっから。
けどね、マスコミは違いますよね。
こんなヘボなガセネタを面白半分に垂れ流ししてる責任は重大ですよ。そんな自覚さえないのでしょうけど。どうにかならんものか、と思うね。

アタシはそもそも、ずーっと以前に「週刊新潮」の記事にめちゃめちゃ傷つけられた経験があって、以後、見るのもイヤな存在になってましたから、とにかく今回のレスリーの事件があったあと、お願いだからこの件には触れずにいてくれという思いでいっぱいでした。だって、触れたら絶対にゲスなこと書くに決まってるんですから、あの雑誌。
でもって、案の定。
馬鹿はいつまでたっても馬鹿だった。
週刊新潮」なんてつまんない雑誌、不買運動起こさなくても早晩消え行く存在ですから放っておけばいいんだろうけど、やっぱ今後「も」買わないね、アタシは。