マヴォネタ。

芸術の秋、ってーことで、以前もココで話しましたマヴォのお二人、村山知義柳瀬正夢についてつらつらと語ってみたく。
つか、昨日、本屋でスゴイもんを発見しちゃってさ~一瞬「きゃーーー」と叫びそうだったのっ。
そーれは「2003年・村山知義カレンダー」!!!
こんなのが出てるんですよぅぅぅ。嬉しいぃぃ。もちろん来年度のマイルームのカレンダーはこれに決まり。
これ、婦人の友社の100周年記念とかで出してるものらしいので、毎年あるのかどうかわかんないのですけど…びっくり。独特の雰囲気をもったイラストがカワイイです。定番キャラ「あひるさんとニワトリさん」がいないのが残念ですが。


先日、某所(←ヤフオク)でゲットした柳瀬正夢の貴重な画集を眺めていましたら、またまた彼のその才能の素晴らしさに胸がいっぱいに。これ、わりと集大成的な画集なの。没後45周年に武蔵野美大で出してる「ねじ釘の畫家」というやつです。
柳瀬正夢の場合、その筆運びを見るだけで本当に表現者としての天分ってのをひしひしと感じるんですよ。印象派からキュビズムシュルレアリスム表現主義構成主義などの「あらゆる絵画技法」を経てなおかつ全て巧みであり、さらに水彩から油、漫画、ポスター、挿絵、写真など「あらゆる表現手段」を経てなおかつ全て巧みであり、ついでに字(デザイン文字)もうまいっつー。フォント、という概念が無い時代ですけど、あれは立派にフォントです。柳瀬1号とか2号とか名づけたい。
とにかくもうね、「造形の天才」ですよね。
そしてその巧みな絵筆は、最終的に庶民のものだった。額に入れて応接間に飾られる絵画ではなく、常に身近にあって、思想があって、多くの人々とともにあったというところがまた、画家の人間的な魅力を醸し出しもし。
柳瀬正夢はあと2ヶ月も経たずに終戦がくるのに…という昭和20年の5月25日に新宿の空襲で亡くなってるのですが、まさにその一生は戦前の芸術、思想を体現した存在というか。戦後を見ることなく逝ってしまった前衛芸術家の魂を思うとまた、とことんせつない。
本当はこうやって経歴だのどういった存在だったかなんてのよりも芸術家の場合は一発、作品を観てもらえるとそれで話が楽になるんですが、いかんせん著作権とかあるから滅多に作品をHPにも載せられず。とりあえず柳瀬正夢著作権自体は切れてるということと、当時街角に貼られたものという事で「無産者新聞」発刊時のポスターを載せとく。2色のバリエでここまで斬新に。こういった「ロゴ」も全部彼のもの。このポスターのは左翼系スタンダードなロゴですな。

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対して村山知義なんですが。
これまた某所(だからヤフオク(笑))から手に入れた貴重な雑誌を見せちゃおう。

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西武美術館1989年刊行「ART VIVANT」誌。表紙の作品は、1923年、ベルリンから帰ったばかりの21歳の村山が個展「意識的構成主義」に出品した「花と靴の使ってある作品」(題名、そのままやん(笑)。でもこれ、もしかしたらレプリカかも。詳しくは不明。)現物は立体作品で現存しません。

(部分拡大)

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村山知義は、一言でいうと時代の匂いをとらえるのにすごく敏感だった人。いつだって最先端で、オシャレで、前衛で、誰もやってないことを発想してドカンとやっちゃう。頭が良くて、理屈臭くて、何か話せばめちゃくちゃ強気で(笑)。もちろん絵もうまいのですが、稀有なのは技術よりむしろその発想とか審美眼の方だと思う。最終的に彼は演劇の道に進んでゆくんですが、絵画よりさらに縛られなくて流動的な世界でないと収まりきらない感性があった気がします。とにかく彼はパワフル。常に新しいものに萌えている。で、絶えずコロコロ転がりながら思索し、造形する。邊走邊畫。柳瀬正夢とはまた違ったタイプの天才ですねぇ。
自己主張が強いばっかりにあらゆる人間とぶつかってゆく村山知義が、最後まで議論しつつも尊敬し、好いていたのが何事にも真っ直ぐな柳瀬正夢だったようです。なんだかわかる気がする。
それはとりもなおさず柳瀬正夢の絵が「ホンモノ」だからでしょう。

この二人に共通する一番大きなこと。それは「師を持たない」ってことです。
彼等は二人とも独学で絵を学んでいる。
個人の「表現したい!」という純粋な気持ちから動く。そこがまた、強い。真の表現者だ、という気がする。
権威主義的な画壇とは全く別の価値観に満ちた天地でモノを作り続けた二人を想うと、私はとても元気が出てくるんですよね。「前衛」であり「カウンター(反抗)」であり「自由」の匂いが私を興奮させる。
モノを作るという事はパスポートが必要なことではないのだ、と。誰かの許可が必要なものではない。自分という存在と向き合うことなんだな、と思う。そしてその存在が社会的であれば必ずやその作品によって誰かを救うこともできる。そんなことを思ったりもし。

よく考えたらべつにこれ、マヴォの話じゃないですな(^^;。マヴォ同人の二人の天才の話、でした。