分断の世の中で

昨年、私の意識の中で「あちら側」と「こちら側」という新たな境界線が生まれました。
誰かと話していても、その意見の在り方で、気持ちのどこかで(自分の意見を言っても)「OKな人」「NGな人」との選別をしてしまうようになっています。そして口をつぐむ場面もしばしば。こんなのは今まで無かった傾向です。
「あちら側」の中には正義の旗の下、「こちら側」を矯正しようとする者がいます。異なった見解を持つ者同士で、片方が片方をコントロールし、思い通りに動かそうとすれば、必然的に反発と抵抗が生まれる。
互いの立場を「ヒトはヒト、自分は自分」と割り切って「そういうもの」と認め合うことでしか、人間は共存できません。気に入らないからといって、敵視し、排除しようとすれば争いが起こります。
大半の人はごく普通にそれぞれの立場を理解し、棲み分けができています。あなたはあなた、私は私。それが理想の姿です。人はかくあるべきなのです。
ただ、そう思えない人もいる。そういう人たちに限って論理も破綻しています。真実でないことを狂信して押し付けてくる。自分たちが絶対正義だと信じて疑わない。その冷静さを欠いた行動が、とても怖いのです。
誰もが自分の思う通りの行動をする自由があるのに、その方向が違うというだけで、もはや言葉が通じない人がいる。話し合うことなど無理です。ただ、距離を置くことしかできない。距離を置いたとしても、敵対意識は変わらない。「あちら側」と「こちら側」は、いくら先に進んでも永遠にコインの裏と表でしかない。どちらかだけの正義などないのに、正しいのはこちらだと互いに言い張っている。

ネットを開けば、TVをつければ、ちょっと外に出れば、どこかしらから非難の声が聞こえ、眉を顰められているような気がしてくる。社会から疎外されている、という感覚に襲われる。立派な学歴を持った言論人が、TVで堂々と「こちら側」を糾弾しているのを見たりすると、体が震えてきます。こんなことが許される世の中になったのかという絶望感で、見える景色も変わってゆくような心持です。
日本には同調圧力、というお家芸まであって、大した見解も思慮もないまま、ただそちらの方が人が多いという理由でマジョリティにつく人間が多いのにも辟易します。人の尻馬に乗って囃し立てているだけの者たち。なんでこんな案山子のように脳みその無い人間にわかった風な口をきかれねばならんのかと腹わたが煮えくり返りそうになる。

マイノリティというもののツラさを、生きにくさを、不条理を、理不尽を、初めて厭というほど感じています。マイノリティの立場をどんなに知らなかったかを痛感しています。
私は今まですごくフラットで、人種もジェンダーも差別的に見ることが(自覚的には)なかったので、マイノリティと呼ばれる人たちの抗議というものは、差別的な一部の人間に向けられているのだと思っていました。でも、実際はそうではない。
マイノリティは、あえて反論などせず黙っていても、生きるのに不自由な立場に追いやられてしまうのだということがわかりました。なぜなら、マジョリティが(意識するかしないかに関わらず)正義の旗をあたりまえのように鼻高々に掲げているからです。必然的にマイノリティ側には正義が無いとされてしまうのです。単純な数の理論ですが、問答無用に存在を否定される構図になってしまうのです。
マジョリティ側がわざわざマイノリティ側のことを言及していなくても、マイノリティ側は「排除」を感じざるをえない。そこにダメ押しのように石を投げる(思慮の足らない、馬鹿な)少数の人がいると、その他のサイレントマジョリティまでもが敵のように思えてしまうのです。

この感覚を、皮膚感覚のある実感として得たことは、怪我の功名というか、私が今後生きてゆく上での非常に大きな財産となりました。
面白いことに、長年「嫌いだ」、「苦手だ」、と思っていた人が、今となっては明確に「あちら側」の人だという例がすごく多いことが判明しました。もうそもそも根本からして考え方が違ったんだなぁ…だから好意を持てなかったのだ、と気づきました。そういう人たちがSNSでしたり顔して「多様性」なんてものを語っているのが噴飯ものです。自分たちを常識人だと信じているのも滑稽です。私はそんなあなたたちファシストを心の底から蔑んでいます。
幸いなことに私の家族は「こちら側」にいます。家族は呑気で、私ほど絶望感に陥ってはいません。「ヒトはヒト、自分は自分」が身についています。もともと自主自立の精神があって他者を気にかけないからなのかもしれない。私は情けないことに、ある程度、他者に期待をしてるからここまで打ちのめされているのでしょう。被害者意識が拭えないのは、ずっと自分もこの社会に受け入れられるべき存在だと思っていたからにほかなりません。そしてどうしても「私は何も悪くない」という意識が抜けない。悪者にされることが我慢ならない。でも、悪いかどうかは、この社会においては私が決めることではないのです。社会の理屈と私個人の理屈はイコールではない。それを理不尽だと感じるのは、私の甘えなのでしょう。社会なんてもともとそんなものだったのです。

人間の歴史などこんなことの繰り返しだと、史実が証明しています。けれど自分自身がこんな世の中に生きるようになるとは思いもしませんでした。こんなに、社会というものに絶望しようとは。この世はもっと「進化」しているのだとばかり思っていたのです。浅はかでした。
小田嶋隆さんが、「ツイッターには、人々の私怨を増幅し、過度に可視化する機能が備わっている。その歪んだ窓から世界を眺める者は、いつしか、人間ぎらいになる」と呟いていました。
私のこの厭世的な感覚も、「歪んだ窓」から見た世界に対するものなのかもしれません。多くはSNSやTVから得た情報によるものだからです(実際に身近にいる人たちだってそういう情報源から判断して考えを持っている。ある程度、コントロールされていると言っても過言ではないとおもうくらいに)。
本当はきっと、世界はもっと奥深く、救いがあるはずです。今はその境地に辿り着くことはできないけれど、いずれ、また私は美しい世界を探しに出かけるでしょう。
もともと私は世の中を明るい面からとらえるタイプの人間です。こんな酷い厭世観は、今年がピークだと思いたい。こんなものは全て幻想かもしれない。国家も社会も所詮幻想なのと同じく。
とはいえ、今のところはとりあえず社会に何の期待も抱いていません。この生きにくい世の中で、どうにか自分なりに心地よく生きていこうというミニマムでミーイズムな感覚にシフトしています。この世は所詮サバイバルなのだ、と割り切って、私は自分の人生を、誰にも奪われずに思ったように生きてゆこう、と、心の中で決意しています。密かに、ずっと、これからも闘い続けていくのです。