何も知らなかった


福島での事故があってから、原発に関しての情報をネットでいろいろと探るようになりました。
今までまったく知らなかったことがあまりにも多いのに愕然としました。
身近(自分の住む県)に原発がないこともあって、関連ニュースを耳にしても、どこか遠くの事としてスルーし続けていたんですよね。
てか、スルーしてる意識さえ無かった。
原発建設予定地の近隣住民が反対運動を起こすのも、「不安」だからだろうとわかっていても、その「不安」の内容まで細かく知ることはありませんでした。知ろうとしてなかった。
チェルノブイリのような深刻な事故は、先進国であり技術大国であるこの日本ではまず起こるはずないと、どこかでたかをくくっていたんです。楽観しきっていたわけではないけれど、要するに、深く考えたことが無かったのね。
今、こんな事故が起こってはじめて、原発の恐ろしさと、日本がどんだけ危ない橋を渡ってるんだかを知りました。
高速増殖炉もんじゅ」の重機落下事件とその後の経緯が不透明なまま報道されずにいることも、浜岡原発が世界一危険な原発と呼ばれていて、なおかつそれが東海地震震源地となりうるプレートの上に立っていることも、初めて知りました。


もんじゅ」の事故は予断を許さない状況のようですし、浜岡原発は大きな地震が起きたらどうなるかわかりません。
もし、これらの施設が事故を起こしたら、いずれも福島原発の比ではないくらい未曾有の(有史以来最大の)災害になるとの見方がされているようです。300キロ圏内には「死の灰」が降り積もり、それは何年経っても消えることが無い、とも。
不安を煽っても仕方が無いことですが、こんな状況下の今では、考えないでいるわけにはいきません。
これは現実に起こりうる、想定できうる災難です。


それにしても、なぜこんな危険な施設を作ることを許してしまったのだろう?誰が考え、誰が推し、誰が許したのか?反対の声はなぜ届かなかったのか?
私には何もわかりません。「気づいたらそこにあった」、という感じです。
いや、そうじゃないな。
私の場合、「そこにあるのに気づいた」のさえ2、3日前のことです。あまりにもモノを知らなすぎます(哀)
無知という意味では、物語「風が吹くとき」のおばあさんと大差ない。
何も知らず、疑うこともせず、正しい知識を持つこともなく、無力なまま被害に遭ってしまうあの老夫婦のような人で、この国は溢れかえっているのかもしれない。
まず、知ることから始めなくては。


以下、近況。
特に変化はありません。
相変わらず家にこもりきりで過ごしているので、時間の流れがイマイチ把握できてない(汗)
今日は「断捨離」しました。古いおもちゃや使わなくなった書類などを処分。思ってたより多かったです。
本も、油断していたらまたドッと増えているので、明日はこれを選別して処分しようと思います。
図書館ヘビーユーザーの私としては、たいていの本は持たなくても問題ありません。
どうしても手元に残しておきたい本、っていうのはおのずと希少な古書や雑誌、それと自分の趣味に偏った分野のものになります。
新しい話題の本などは買ってもすぐ処分(オクやブックオフで売るとか)することになるので、本棚をパッと見た感じ、どうしても「古い…」って印象があります。
かなり前から時が止まった人(かなり前から読書にいそしんでいない人)の書棚のような感じ。
それがちょっとモニョるなーと思ってる。こんなことであれこれ思うなんて、くだらないけれどw



なんとなく始めたくなって、もう一つ新しいブログを作りました。
今のところプライベートモードにしてますが、軌道に乗ったら公開モードにするかもです。
今回の災害で、ツイッターの便利さを実感したので、(厳密な意味での)SNSが苦手な私も一時は「私もツイッター始めよう!」と意気込んだのですが、緊急性が消えて冷静になってきたら、やっぱり向いてないな、と思い、どうでもよくなりました。
私にはブログというスタイルが向いてる。書きたいのはやっぱりブログです。
ブログは「誰かが見ているかもしれないけど見ていないかもしれない」というユルいネットワークの片隅にある、どっちかていうとむしろ自己完結的自己対話の場なんですよね。
そういうところが好き。
ちょっと片想いに似てるの。片想いの楽しさに。
なんであれ、どんな時も、私はネットが好きだなぁ。好きだし、依存してるし、心の支えだ。
ITは未来を作る、と信じているし、最近では持ち株もほとんどがIT関連でした(つい先日まで)。
今はそれどころではないけれど、それでもインターネットが人々の力になってるのを見ると、やっぱり夢のツールだと思う。