「津軽じょんがら節」

60年代〜70年代の古い日本映画を見よう!という試みの一環でセレクトしてみました。
「バラツユサイダー」のakkoさんのレビューを読んで、興味がわいたので。
こちらは1973年の作品。


これはまさしく、当時の「ディスカバー・ジャパン」の流れで作られた作品なんでしょうね。鄙びた感じが、めっちゃ”国鉄”っぽい。
日本のどこかに私を待ってる人がいる…と信じられるような、それは辺境の地なのでした。


舞台は青森の漁村。
都会をはじき出された男女が行き着く先は、海沿いの粗末な掘っ建て小屋だ。
ここは女の故郷で、女はここで両親の墓を建てることを夢見ている。
荒涼とした丘の途中に杭が一本。
それが女の母の墓。
その風景に、日本がまだ貧しかった時代に、そこで生きた一人の女の人生が浮かび上がる。
こういうセンチメンタルが通用するのは70年代だからだろうなぁ…という気がする。


真っ赤なコートの江波杏子は、カッコイイです。
ド派手なナリは、土地に根付かないことを象徴しているよう。
彼女は終始、流浪の人として画面にいる。
それと相反するように、粗末な着物を着た盲目の少女には、土着の、逃れようが無い性的な匂いがしている。
キレイなのにプラスチックでできている花と、目立たないのに中に蜜をたっぷり含んだ野生の花…という対比を感じる。
流れ者の男はプラスチックの花を捨てて、野生の花を摘む。自分の「生」を確かめるように…
この男を演じているのは織田あきらって人。
akkoさんが、この織田あきらを「キムタクと佐藤浩市と足したような顔で、それ以上に誰かに似てると思ったら北公次だ」との説を書いてらして、「それだ!」と、私も膝を打ちました。
だから私のキモチに入ってこないのだなーともw(北公次系、嫌いなタイプなんだもぅん)
私はどういうわけか日本の俳優さんに、異性として惚れる、ということがほとんど無くて、それは残念だなぁと思います。
目当ての俳優がいないの。いたらどんなにか楽しいだろうに、と思うんだけど。
演技が好きな俳優さんならいるけど、それは役によって見たいという熱意も変わる。


津軽三味線の音はいつ聞いても何かすごく胸に迫りますね。物語を喚起する力があるような気がする。
「じょんがら節」と言いながらもこの作品には三味線はそれほど物語に密接に関わっていないような気がしました。効果的に挿入されてはいるけれど、どこか、遠い。
もっと三味線が主役の物語が見てみたいなぁ。


とにかく印象的だったのは、海。
全てが虚しく散った後も、海は相変わらず轟々と音を立てている。
登場人物の頭の上から大きな波が襲ってくるような撮り方がされているのだけど、それがすごく効果的でした。



海鳴り。目の前に広がる圧倒的な容量の水のうねり。
ベタついた湿気を含んだ風。
寄せては離れを繰り返す灰色の波。
魚の匂い。錆びた鉄。舞い上がる砂の微粒子。
海沿いのわずかな土地に、掘っ建て小屋を建ててへばりつくようにして暮らしている人たちがいる。
貧しくて寂しくて、どうしょうもなく閉塞感がある暮らし。
海鳴りは絶えず耳に響いている。
波の音がずーーーーーーっと聞こえているなんて気が変になりそう。
これに慣れたら、別世界の住人になってしまうんじゃぁ無いかという気さえする。




こちら↑は海鳴りを聞きながら、掘っ建て小屋の外で七輪で魚を焼く江波杏子
派手なスカーフが場末感をいっそう感じさせます。
こんなさりげないシーンでも、頭より上に海が見えるように撮られている。


私は海を知らずに育ちました。
今は故郷から離れているけど、相変わらず身の回りに海は無い。
いつも思うのだけど、海に接して育った人間と、私のような内陸のだだっ広い平野で育った人間とでは、根本的な何かが違うような気がします。
マザーランドというのは、思いのほか感性に影響するんじゃないかなぁ、と。
永遠に体験できないことは山のようにある。
永遠に目にすることのない風景も星の数ほどある。
同じ日本だって異国より遠かったりする。
映画を見ていると、自分の心象風景には無い様々な世界を感じることができるので楽しいですね。