出生地、新宿区新宿字恐山!

田園に死す [DVD]

田園に死す [DVD]

  • 発売日: 2001/10/25
  • メディア: DVD


このところの一連のテラヤマ回帰の一環で「田園に死す」を観ました。
あれれれ…これってこんなに面白い映画だったっけ?
というのが、今の感想。
初めて見たのはハタチの頃で、その時はただただひたすら「恐山」の強烈なイメージと、「フリークス」に似たサーカス団の絵に描いたような奇矯ぶりばかりが印象に残り、すごく表面的な感想で止まっていたように思います。
でも、今回見てみたら驚くほどスゴイ映画だと気づきました(この2時間に寺山のエッセンスがぎゅっと詰まっている、という意味でスゴイの)。
もうちょっと既成のイメージに寄りかかっている印象があったのだけど、そうでもなかった。”総寺山色”、だった。


この映画を、「(タイプ的に)鈴木清順の作品に似てる」としている人がわりといるようですが、それは違うと思います。
鈴木清順の映像は芸術的計算によって生まれているように思いますが、寺山のは個人の記憶の集積のようなもので、ゆえに既視感のある風景のコラージュ(このコラージュの才能は稀有ですが)や、前近代の田舎の象徴的因習のカリカチュアであり、自作の韻文に対する具象です。要するに「芸術」の難解さは無く大衆的です。
寺山はここまでして「身売り」したんだなぁという感慨が湧きます。
「書くと、書いた分だけ失うことになる。書くつもりで対象化したとたんに自分も風景もみんな厚化粧した売り物になってしまうんだ。」
というセリフがあるけれど、まさにそんな感じ。
でも彼は確信犯だから悲愴感はありませんけどね。嬉々として自分を売ってる、いわば天性の淫売でしょう。


強烈な映像やシンボリックなモノがあらゆるところに散りばめられているので、その奇妙さに幻惑されちゃって、まずそこで足をとられてしまうかもしれませんが、この映画は、そこで止まってしまうと陳腐に落ちるかもしれません。
やはり、寺山に対する事前の知識があったほうがより良いように思います。
寺山の短歌をきちんと読んですでにそこから多少なりとも彼に近づいていると、表層的なイメージに引っかからずに、面白さも倍増すると思われます。
これ観て、やはりどうしても寺山の真価は文芸にある、という思いを強くしました。
作品中には短歌がたくさん出てきますが、どんな映像やイメージよりも、そのミソヒト文字が強い。とにかく強烈。とにかく天才。むしろ映像などは蛇足かと思うほどに。


有名なラストシーンは、あらためて見るとやっぱり素晴らしいですね。名シーンでしょう。*1
寺山修司の人生が、あの最後の5分に集約されている。
過去を何度も作り変え、常に現在に生まれているつもりでも、寺山の出生地は永遠に恐山に象徴される故郷であり、そこには必ず母がいる、ということなのでしょう。
自分の内に巣食う母を殺すことができず、母より先に自分が逝ってしまった寺山の寂しさを思います。親不孝な人です。


一番せつなく感じたのは、「現在の寺山」と「15歳の寺山」が将棋をさすシーン。



背後で様々な人たちが出てきては消えてゆくのだけれど、そこに理髪屋がいて、小さな坊やが散髪をしにやってくるんですよ。
でも、散髪が終わってケープを取ると、坊やは青年になっている。やがて青年は老人になってゆく。
少女もやってくる。でも、少女も同じように年をとってゆく。あっという間に老女になる。
後ろでは、出征兵士を送る列や葬列が現れては消える。
これは冒頭の「かくれんぼ」のシーンでも同じ。
「もういいかい」「もういいよ」
で、目を開けると、すでに10年以上もの時間が経っている。
修学旅行生は皆、死にそうな老人だ。
時は絶え間なく流れてゆく。「時間」は持ち運べない。
柱時計が鳴る間に、人間なんて、すぐいなくなる。
それでも私たちは同じところで答えの出ない問答を繰り返す。
そんな、ものすごく切実な唯一の「現実(=時間!)」が、ここでは表現されているような気がします。

*1:あれは今のアルタ前ですが、先日、娘とここを歩きながら、「昔、アルタがある場所には二幸って店があって、前の噴水広場ではフーテンがたくさんたむろしてたんだよ」などと話す自分に愕然としました。そんなの自分、見たことも無いくせに、なんで娘に話してるんだ?オマエは団塊の世代の人間かwどこかで見聞きしたものが、まるで記憶であるかのように脳内にあるんですね。こういうことが重なれば、寺山が言うような「過去の作り変え」なんて無意識でもやっちゃいそうだ。