野音過ぎて

昨夜のエレカシ野音は素晴らしかったようですね。
行った方たちの実況ツィートを見ながら、月の夜の幸せなヒトトキを想像し、楽しませてもらいました。
行くはずだった野音。行けなかった野音。行かなかった野音。どうとでも言えるけれど、とにかくそこに私は居られなかった。居られない自分が、一番自分らしいと思える不思議。
実況でセットリストを見て、テンション上がりましたよ!

 

「道」があり、「風に吹かれて」があり、「月の夜」 「珍奇男」 「武蔵野」 「流れ星のやうな人生」と続く場面があり(うううーー凄すぎる!)、ラストがなんと!!「「序曲」夢のちまた」だってようぅ。
マジか!
なんという神セットリスト!!!!

 

一瞬、「ああーーーやっぱ行けばよかった!」って思ったけれども、ちょっと待てよ。
ライブって、楽曲が好きすぎてもツライもんがあると思う。
特にエレカシみたいな、(良きにつけ悪しきにつけ)ライブとCD音源にかなりの差があるバンドなんかは。
「武蔵野」なんて、自分、偏愛曲ですからね、ナマで聴かない方が無難かもしんないよ、もしかしたら。
だって私にとって最高の「武蔵野」はオリジナルアルバム音源だもん。ライブで(映像で観た限りでは)あれを越えたことはない。
ミヤジは自分の歌なんだからどう歌おうが自由なのは当然で、その時々のテンションや思い入れで歌うわけだけど、私は自分が大切にしている心の歌を、そのイメージと違う形で歌われているのを聴きたくないし、「聴きたくない」という気持ちを大事にしたいんですよ。こういう意見はあんまり一般的じゃないから理解されにくいだろうけども、ここでステージ上の宮本に負けるわけにはいかんのよ。


歌は作者のものなのか、聴く側のものなのか。
いわゆるアーティスト惚れのような人たちと私の曲の聴き方ってのは、思うにベクトルの向きが違うからかみ合わないのも当然かなぁと思う。
私にとってミヤジの歌(全部ではないもちろん。思い入れのある歌が数曲ある。それのこと)は、すでに自分の想念と癒着して一体となっていて、それはもはやミヤジという他者からこちらに向かって発せられ、私が他者としてそれを受け取るようなモノではないのです。フラットな言葉で言うと、「消化しちゃってる」。もちろん、私の勝手に、ですよ。
だから、ステージでミヤジと対峙するときには、いつも自分が独りきりでヘッドフォンで閉じた世界にいながら聴いてる曲とは別のモノとして聴く姿勢が無いと(その曲は自分のものでなく宮本のものであるという意識がないと)、「これじゃない」「そうじゃない」という違和感や疎外感と闘わなくてはならなくなるのです。だからライブは苦手なんですが、反面、私は他者としてのアーティスト宮本を敬愛してもいて、その姿を拝みたいというような俗っぽい気持ちもあるわけよ。
だからファンクラブなんぞに入ったり、音楽雑誌のインタビュー読んだりしてるわけで……でも正直、こういう自分を持て余してもいるのです。「そうじゃないんだ、そうじゃないんだよ」と思ってる。
宮本アイドル視は、私の中のエレカシの歌たちに失礼だ、というような感覚。
インタビューもグラビアもナマのパフォーマンスさえ懐疑的になり、純粋に音源だけあればいいのだ、と。そう思いたいし、そう思うことがもしかしてアーティストに対する一番の信頼と賛辞かもしれない、って感覚がどこかにある。ゆえの、このようなツッパリ暴言ですすみません。
とにかく、だ。もう面倒くさいから結論だけ言うけど、
「武蔵野」はナマで聴かない方がきっとよかった。これでいいのだ!
…って思うことで、神セットリストに遭遇できなかった自分を納得させているってー話だよ。
あーでも聴いてみたかった…(ブレブレじゃん(汗))

 

今夜は野音の2日目。
昼過ぎの今の段階では雨のようですね……どうにか本番前に晴れるといいけど。
噂では今日、「偶成」やるようなんだけど、ホントかな。(「偶成」と「武蔵野」は私のエレカシ偏愛曲ワンツー)
ただでさえ神セットリストなのにどうなってんのこれ。