「セデック・バレ」その2〜国家という暴力装置


続きです。
心を決めたとはいえ、DVDを一度で見終えることはムリでした。
キツイです、映像が。
こんなに人が(しかも日本人が日本人ゆえに)殺される映画は観たことがない。
プライベート・ライアン」(ノルマンディー作戦を描いている)が今まで観た映画の中で一番殺戮場面がキツイ映画でしたが、あれは限定された戦場で兵士のみが銃撃戦で…というスタイルです。
それに比べて、こちらはごく普通の市井の日本人が日常の場でいきなり首を刎ねられて皆殺しにされる…というビジュアル的にもシチュエーション的にも、(死者の)数の問題以上に衝撃的なものです。
ナィーブで気が弱い人はかなりハードル高い映像が連続して出てきます。
文献で読んだ時も想像して吐き気がしましたが、映像はダイレクトですからめっちゃキツイ。
これでも「殺戮場面は残虐さを抑えている」とかいう感想が多いんだから、世の中タフな人ばっかりなんだろうか…(それかゲームとかのやりすぎで感覚がマヒしてる?)
劇場だったら私はまともに画面が見られないうちに(ほとんど目を瞑ったままで)やりすごしてしまいそうなレベルですが、幸いDVDだったので途中何度もDVDを止めたり、様子をうかがってから前に戻して見直したり、数日空けては再び挑戦してまた挫折したり…という観方ができました(汗)。
いちいち殺される側の一人一人の人生に思いを馳せていたら気が変になりますから、途中からはもう「無」の境地でした。
「残虐さを抑えている」というのは、運動会場で殺された大多数が子どもだったという史実を映像化していない(大人が殺されるシーンがほとんど←でも、首はどんどん刎ねられる(汗))、女性が殺されるシーンも極力暗示的に描かれるといったところなどに配慮が伺えましたが…
…まぁ、そういう問題でもないな(汗)。
スタッフ見たら「ジョン・ウー」ってあるんだもん…
…ああーなるほど、と(苦笑)。
ウーさんの映画だったらやたらめったら人が死ぬのがデフォルトだ。
冗談みたいに人が死ぬ。ユンファ以外はみんな死ぬw
ここでも絶対に史実よりも日本人殺されまくってましたからね(圧倒的に原住民の方が死んだ数は多いのに)。


セデック側にバワンっていう子ども(10歳くらい)の戦士がいるんですが、観ているうちにいつのまにか私の中ではこの子が主役となっていました。
バワンはすべての悲しみの象徴のように印象的です。
可愛い男の子。まだあどけないんですよ……なのに戦いでひるむことなく突進していく。
お腹が空いても、母が恋しくても、その先に死しか待っていないというのに、全力で戦いの最前線を駆け抜けてゆくのです。戦士の矜持をしっかり持って。
泣けてきます。
イスラムの聖戦に参加している少年兵にもバワンと同じものを感じます。
幼いころから培われた部族の掟が身に沁みついている。
独特の世界観のなかでしか生きられないけなげな悲哀に胸が痛みます。
何人もの日本人を殺しまくった狂気の戦士なのに、どうしても一人の小さな男の子として見てしまい、可哀想で、忘れられません。
彼が最後どうなるのかが気になって、ずっとドキドキしてました。
残酷な死に方をさせてほしくない、ツライ最後は観たくない……と祈るような気持ちでした。
最後のシーンは最大限にきれいに(でも、せつなく)描かれていたのでホッとした。
モーナが殺した子どもは日本人だけじゃない。
バワンたちセデックの子どもたちをもこうしてたくさん殺したのです。
戦いというのは、そういうものです。
産んでも産んでも子どもたちを殺される女たちの絶望もあまりに深い。


もちろん日本も、自国の子どもを大量に殺しています。
戦争は戦士や軍人だけのものではない。まじめで普通の人々が、”自国のせいで”傷付き、奪われ、殺されるものなのだと、痛感します。
この映画を見て感じる一番大きな理不尽は、「国家」という強大な暴力装置の存在です。
最初に日本からの調査隊が殺されるシーンで、まずそれを感じます。
国の命令で召集された若い兵隊たちが、行きたくもない台湾の奥地に行かされ、やりたくもない戦いに参加させられ、何の関わりもない原住民に意味も分からず対峙させられ、襲われて苦しんだ挙句に次々と命を落とすのです。
まだいたいけな若い子たちですよ…。
気の毒で可哀想で涙が出ます。
セデックの戦士は自らの意思によるところが大きいけれど、日本の兵隊さんたちは意志なんぞ最初から無視されてるわけですしね…ホント理不尽ですよ。
彼らを実際に殺したのはセデックだけれど、セデックは狩場によそ者が入ってくればそれが同じ部族の他蕃の者でも首を狩ります。日本人だろうがなんだろうが敵を打つのは彼らにとってあたりまえなのです。
そんな場所に、兵を強制的に送り込んだのは「日本」という国家です。
顔のない、誰の事を指すのかもわからない、幻影のような、しかし強大で恐ろしい国家というシステムです。


映画では描かれていませんが、モーナは反乱以前は日本人ともうまくやっていた人でした。ずっと敵対しあっていたわけではありません。
日本が強大な軍隊を抱えている勝ち目のない相手だということも知っていた(日本の内地へ「研修」に来たこともあるのです)。
それでも若い者たちの不満と憤りを受けて蜂起を決意し、一族滅亡の道を選びます。(こういった理由付けはこちら側から見ての事です。セデックにはもっと別の理由がありますが、後述します)
見ようによっては西郷隆盛と神風特攻隊を合わせたような、言ってみればとても日本人に似た矜持を持って行動したようでもあり、それが当時からセデックに対して「武士道」云々を語る日本人がいたという事実につながるのでしょう。
たしかに、特攻隊員たちが「靖国で逢おう」と言って敵機に突撃していったのと、セデックたちが「虹の橋をともに渡ろう」と言って戦いに進んでゆくのはある種、相似形です。
死にゆく以外にない道を、あえて選ばざるをえないと思ってしまうプライドや誇り。
強力な宗教的陶酔でエクスキューズをつけて、生き死にの葛藤を凌駕する、狂気とさえいえるほどのものすごい強い意志の力。
負け戦を受けて集団自決する女性たちもそう。
集団自決は日本人の専売特許かと思っていましたが、台湾原住民にもその心性があることに驚かされます。
これが皇民化教育の賜物だったのなら、すごいことですが、セデック族は古くからの言い伝えで、先祖の木で首をくくると先祖の国に帰れる(ただしその時に上を向いてはダメらしい)という言い伝えがあったといいますから、皇民化教育ごときで変わったわけではないようですね。


長くなったので続きます。