その光をもって我らの五感を高め

先日のエントリでリンクしたエア・コンダクター君が、あまりにも楽しそうな陶酔の指揮ぶりを披露していたのを見てから、マーラーの8番をちゃんと全部通して聴いてみたい、と思っていました。


聴きましたよ〜。
マーラー、苦手だと思っていたんですが、これは楽しかったです。
全編合唱曲なので、他の交響曲とはちょっと趣が違うのかもしれませんが、とても聴き易くて、パッショネイトがあって、なんというか…こう、気分がぐわ〜っと高揚するような、気持ちよさがありますね。
この曲を仕上げた時、マーラーは友人にこう語ったそうです。


「宇宙が突然歌いだすところを想像してみるがいい。もはや人間の声は聞こえず、回転する惑星や太陽の声ばかりが響く。」


ホント、これでもか!っつーほどの人間の声を使いながら、人間ではない存在が立ち現れているような曲なんですよね。
惑星、って言われりゃ、ああそうか〜なんて思えちゃうような(笑)。とにかく大仰な。大仰過ぎて突き抜けちゃってるような。
ちっさいことで悩んでるときなんか聴くにはいいかも!と思いますね。
人間の声ってのには、オーラがあるし。それをやんややんやと浴びると、ちょいとした元気が出てくる気がします。
いいじゃん、マーラー
もっと他のも聴いてみたいです。食指動きました。今まで敬遠してて損しちゃったですよ。


合唱と言えば。
先日のエントリで書いたショスタコーヴィチの「森の歌」ですが、こちらももう、びっくりするくらいわかりやすい曲でした。
「当局の要請に従う」と、なるほど、こういう曲ができるんですね…みたいな感じ。ちょっと驚きました。
だって、絵に描いたようにマスゲーム風味満載の曲なんだもん。
なんだか、それはそれで興味深いんですが。
歌詞もイカシてますよ。
「ピオニールは植林する」とか「スターリングラード市民は前進する」なんて、いかにもな題名がついてたりするの。
私はどこかしら全体主義芸術に(あくまでも芸術表現の一形態として)惹かれてしまうヒトなので、こういうのもホントはちょっと胸キュンだったりします。でもやはり、あまりに大衆的過ぎて、本当の意味での感動には遠いのかもしれない。
例えて言うと、共産主義圏雑貨のキッチュな色彩が魅力的で、一瞬、目を奪われるものの、それがホンモノだとは思ってないのよ…といったところでしょかね。(でも、それはそれで、他では見られない良さがある。たまらなく。)


ボロージャのタクトがどう作用しているのかは、聴き比べる材料が無いのでわかりませんが、とてもスッキリとわかりやすい曲になっておりました。
「派手な装飾を排除」してあるようなので、通常はもっと怒涛の合唱になっているのかもしれませんね。そちらも聴いてみたいです。
ともかく、私のイメージしてるショスタコーヴィチの作品とは思えなかったわけですが、でもその反面、「ちーっともやりたくないけど、わざわざ作ってやったのさ。これ、オレの本意じゃないのわかるっしょ?まるわかりっしょ?でも、なかなかこれもいいっしょ?」みたいな、ショスタコの矜持も見えてくるようで、その才能の無尽に打たれる思いがします。
この曲が、歌声喫茶ロシア民謡が流行った頃の、戦後日本の若者の間で人気だったというのはとてもよくわかる気がしました。


ちなみに表題はマラ8の1部6節の題名です。この部分が特にステキなのです。