「劇場」

マッタンの新作「劇場」を読みました。
ネタバレあるかもですので、知りたくない方はパスしてください。



マッタンの初めての「恋愛小説」として紹介されているこの作品。
予想していたとおり…というか、予想していた以上に、(マッタンのファンであれば周知である)「池尻大橋の彼女」の話でした。
注:「池尻大橋の彼女」(以下「彼女」)というのは、マッタンのエッセイ集「東京百景」で触れている昔の恋人のこと。その文章への私の思いはかつてこちらに↓書きました。

freakyflower.hatenablog.com


ここで私は「マッタンにはぜひ物語の完遂を目指してもらいたい。」と書いていますが、これはリアルな(つまりこの彼女とよりを戻して欲しいといったふうな俗っぽい)意味で言ってます(汗)。

 

二作目が恋愛小説だと聞いたときから、その内容が「彼女」の話になるであろうことは薄々感じていました。
ていうか、もしそうでなかったらどうしよう、ちょっと違うんじゃないの?ってくらいに、私の中では「彼女」の存在が大きかった。マッタンの恋人は「彼女」しかいない、という感覚が私の中にありました。あのエッセイの一文からすでに「彼女」は虚構(物語としての)の中に生まれていたのです。
マッタンはきっといつか小説の中で「彼女」の話を書くだろうと思っていたし、そうであってほしかった。こんな早くにそれを読むことができるとは思いませんでしたが。ぶっちゃけ感無量でした。
タレント・ピースの又吉のファンとしても、作家・又吉直樹のファンとしても、この話はとてもとても読みたかったものだったので。(もちろん小説と現実は違いますが、知りたいのは厳密に言うとそこではないのです。これが私小説であるかどうかはそんなに問題ではない。事実であれ虚構であれ、作家本人の感情の動きを読みたいのです。)

 

エッセイが映画の予告編だとしたら、「劇場」はその本編という感じです。
予告編見ただけで泣いてしまうほど好きだった物語ですが、本編はかなり様相が違いました。
予告編のセンチメンタルな情緒をまるっと覆す圧倒的な「一人の男の告白」がそこにはありました。エピソードの雰囲気や「彼女」のイメージなどの大まかな姿は重なれども、もちろん基本的には全然別の話だという前提の上での話ですが、それにしたって印象が全然違うんですよ。
エッセイでは輪郭がとらえにくかったマッタン(主人公「僕」はマッタンですね、どうみても)の存在が、小説では文字通り主人公であるので「僕」の立場で「僕」の思念が延々と語られている。圧倒的な迫力で語られまくり、「僕」の物語になっているのです。これがわりかしエグイんですよ。赤裸々なので。ようここまで書いたな、という感じであまり人に言いたくないような恥部まで晒しています。


でも一方、「彼女」のことは見えそうで見えない。いい感じで柔らかなものにくるんだ状態で出してるような感じです。
当時のマッタンも(たぶん)見えていなかった「彼女」を、現在のマッタンもうまく表現できていないともとれますが、あえて書いていないのだという気もします。そこは、「彼女」(どうしても現実にいた彼女とダブらせて読者もよんでしまうであろう)を守ったというか、抑えた感じがします。そこがまた効果を上げているんですけどね。
萎れゆく花のように、どんどん悲し気に元気がなくなっていってしまう彼女を、どうしてそうなってしまうのかわからずにイライラしたり焦ったりする「僕」。主役はあくまでも「僕」であり、「僕」のあがきや焦燥や自己嫌悪です。これでもかというほどに精緻に表現される「僕」の感情の動きから、生々しい現実が浮き上がってくるのを感じます。

 

予告編では曖昧だった情緒的なものが、ことごとく説明され言語化されて明瞭に見えてくるごとに、正直ツラいものがこみ上げてきます。
それがとことん現実的(つまり残酷でもあるもの)なので、わりとずっしりとした小説になっているかもしれません。
甘くない恋愛小説です。
全く甘くないチョコレートだって、チョコレート(むしろ純粋にカカオ90%とかの)として存在するように、もしかしてこれも純度の高い恋愛小説なのかもしれませんが。

 

それと。この小説のもう一つの主役が、東京という場です。
すべては東京という場から始まっている。
東京にこだわる心性というのは確実にあって、それがあるヒトとないヒトはたぶん世界が違って見えているんじゃないかってくらいのものだと思うんですが、東京に拘泥するゆえに生まれてくる感覚がなければ、こういった「恋愛小説」もまた生まれない気がします。
この小説の、そこが私の最も好きなところです。
東京の小さなアパートのさらに小さなソファーの上で「ここが一番安心」と寄り添う二人。大きな都会の、小さなサンクチュアリ。大勢の人たちの中の、たった一人。
そこが「一番安心」ゆえに、感情を解き放ってしまう「僕」を既視感なしに見ることができません。

そもそもこれは恋愛小説なのか?
題材は恋人同士の話だけれど、男女の恋愛話というよりも、恋人という名の聖域の存在をマッタンは描いているように思えます。
ほんのわずかな性的描写さえない理由も、そこにある気がする。
身体的な感覚をまるっと無視し、感情だけが濃厚に折り重なってゆく恋人同士の話を読んでいると、恋愛という情動より、自我や仕事や創作や確執や競争や嫉妬や孤独やそれを全部ひっくるめた東京という町や…そういうもろもろの重い荷物の中にポツンと灯った小さな明かりのように「彼女」の存在があるのを感じます。
不安定に、揺らめきながら灯るその明かりは、それだけで帰るべき「家」なのかもしれない。でも人は往々にして家では言いたい事を言い、自分勝手になるものなのです。


マッタンはこんなに大切な物語を虚構の世界にあげてしまったことで、誰もかれもが自由に食い散らかすのを許さねばならない立場になってしまったのをわかっているのだろうか?
……と不安になる。

大丈夫なんだろうか。
どうか後悔のありませんように。
私はこの作品で、マッタンの小説家としての覚悟を感じました。
どんなに迷ったか、どんなに苦しかったか…それでも書いたマッタンの気持ちを尊く思います。
だから、私はこの物語をずっと大切にしていく。
マッタンの書く「彼女」はとてもきれいで純真で、透明感に溢れていた。それだけで、もはや愛だ。
「彼女」は、私の胸にも明かりを灯しているよ、とマッタンに伝えたい。今も、そしてこれからも、日本国中にその明かりが灯っているんだよと。
どのみち、もはや物語は動き出してしまった。
小説家の苦しみと歓びも同時に動き出してしまった。
時は戻らない。
戻らないのならやはり書くしかないんだね。書くことでしか、きっと答えは出てこない。
これからも思うままに書いていって欲しいと思います。ますますマッタンの書くものが楽しみになってきました。