長い言い訳

先週金曜日はエレカシZeppツアー初日でした。
ライブに行くため東京に行き、途中お嬢と待ち合わせして汐留だの原宿だの遊びに行っているうちに、あろうことか私はすっかりライブに行くモードでなくなってしまい……
急遽、ライブをブッチしてしまいました(汗)。
すみませんすみませんほんとうにごめんなさい!もうホントにアタシはダメ人間!わかっているので何も言うてくださいますな……


正直なところ、2週間くらい前からなんとなくこんな羽目に陥る予感はしていました。
自分がライブ会場まで辿り着ける気がしなかった。
私は今、まったくエレカシを聴くモードになくて(もちろんチケットを獲った当時は行く気満々だったのですよ。その後の数か月で事情が変わったのです)…そのような状態でライブの日が近づいてくるのが正直ものすごくツラかった。
自分の気持ちが間に合わない!という焦り。
当日までにこのモヤッとした感覚が払拭できることをうっすら期待もしていたのですが、ムリでした。


私はこの1年間、思いつめたようにそれこそ毎日毎日エレカシを聴いてきました。
私が49歳から50歳になるその一年、全ての日、私はエレカシだけを聴いて(しかもほぼ朝から晩まで聴き倒して)生きてきました。
歳をとってゆく自分と、歳はとってゆくのにどんどん理想から遠くなる自分と。
その焦りと絶望と、ともすれば無気力になってしまいそうな日々を、私は彼らの歌とともに乗り越えてきた。
ミヤジの歌は私そのもの。
私の心に寄り添うもう一人の私自身でした。
その世界は圧倒的に閉じていて、私はそこで癒された。
エレカシは私にとって、(というか、「打ちひしがれて自分のダメさ加減にどっぷり浸かって抜け出せない時の」私にとって)本当に、唯一無二の救いだったのです。
50歳になる時の険しい坂を、一緒に歩いてくれた恩人を私は生涯忘れることはありません。
愛しき歌の数々は、私の宝です。
その圧倒的な事実に変わりはない。
変わりはないのだけれど……
ある時を境に、私はその閉じた世界からポーンと外側の世界に飛び出てしまいました。
ゴチャゴチャした自意識過剰な世界から、いきなり解放されたのです。
オーバーシュート気味なその解放は、ストレスギリギリにまでレベルアップしていた自我の葛藤を、つるべ落としのように急速にほぼゼロレベルまでダウンさせました。
気がつけば、あんなにもすがるように聴いていたエレカシの音楽を、私はこの1か月、まったく聴かずに過ごしていました。
それで平気だったのです。
あれだけ依存していた存在を、私はあっけなく忘れていました。

 

そう。
告白しましょう。
私の頭の中には、今、100パーNEWSの曲が流れているのです(汗)。
もうどうしようもなく、どうすることもできない勢いで「チュムチュム」だの「チャンカパーナ」だのが脳内リピされ、ともすると無意識に「ぽこぽんぺこーりゃー♪」と歌ってたりします。
バカみたいです。
あ、NEWSの曲がバカみたいだという意味ではないですよ。
自分のハマリの勢いがあまりにも凄すぎて、極端すぎてバカみたいだということです。
1年間怒涛のようにエレカシ聴いてたのもたいがいですが、あっという間にこんなところに転んでズブズブになってるのも、展開が急すぎて自分事ながらついていけていません。
自分にこだわり続けた昨日までの私は、どういうわけか今や全く自分を顧みず、ノー天気に、ただ脊髄反射のようにアイドルにワーキャー言うだけの存在と化しました。
まさに「こうして きょうも たべる わらう だきしめる ねむたいよ」(@ぽこぽん)といった感じ。


ゼップのライブが始まろうかというその時間、私は原宿のジャニーズショップにいました(汗)。
楽しかった。
ここ数年、なかった種類の楽しさでした。
ジャニタレの生写真が並ぶジャニショの小部屋を離れて、お台場のライブ会場まで行く道のりは果てしなく遠く、気怠く感じました。
私はジャニショを選びました。
ゴメンね、ミヤジ。
でも大丈夫、ミヤジにはものすっっごいたくさんファンがいるから私一人が行かなくても影響なんか全然ない。どのみち私は最初からおとなしくCDだけ聴いてるファンだったんだし、そもそも苦手なライブに申し込んだのが悪かった。本当に申し訳ない、と思ってる。私のせいで、本当に行きたかった人が一人行けなくなった。そのことが一番、ツラいです。ご迷惑をかけて、すみませんでした。こんなつもりじゃなかったのよ……
でも、こうして自分を責めるのはもうイヤなのです。
誰が悪いわけでも何が間違っているわけでもない。
そうなってしまった、というだけのことなんだから。しょうがないんだから。
自己嫌悪が無いと言ったらウソになります。
毎度毎度、飽きず懲りずこんなことを繰り返している自分がすごくイヤ。
夢中になったらトコトンのめり込むくせに、気まぐれで、移り気で、急に方向転換をして振り向いたと思ったら、また別の方向に蝶々を追っていってしまうような私は、「見ているのは楽しいけれど、ついていくのはイヤだ」と若い頃からよく言われました。
歳をとって丸くなったかと思いきや、それはもっと顕著になった。
気まぐれに拍車がかかり、気が向かないことがトコトンできなくなってきてる。
全ては気分で決める。
気分でしか、動けない。
そのことが、私をダメにしていると常々感じているし、コンプレックスにもなっています。
これでも真面目に正直に真っ直ぐに、誤魔化すことなく生きているつもりなのよ。
でも、正直だからこそ自分の気持ちに妥協することができない、というのは世間では「自分勝手」というのです。
私は自分でもダメ人間だと思ってるけど、他者からも間違いなくそう思われている。
ちゃらんぽらんでいい加減なヒト、とね。
こんなだから私はいつになっても自分が信用できないの。自分を疑っているから自信が持てない。自信がないから、何事も成し得ない。


だからね、もう私はこういった自責の念に駆られるのはやめにしたいのです!
もう50にもなったんだから、いい加減に自分のことを信じてあげてもいいじゃん!って思うのです。
「偶成」を聴いて涙した私は、どこへ行ったのでしょうか?
どこにも行っていません。ちゃんとここに居ます。
他のモノを好きになったって、記憶や想いが消えるわけではない。
短絡的に「今」だけを切り取って自分を語るのはナンセンスだよね。
トランプのカードを切る時のように、いちばん上に来てるカードがすべてではない。手の内にはたくさんのカードがあるのです。
この50年、愛したもの、観てきたこと、思ったこと、全てが私を作っている。

そのことに自信を持っていいのだと思う。
いつか醒めてしまったり忘れてしまうのではないかと、何かを好きになったりハマったりすることに怖がって、楽しむ機会を逸したくない。
だってこの先あと何回こんな思いができるかわからないもん。
こういうのってある種のサプライズなんだからね。
信じられないことに、一度も訪れない人だって世の中にはいるのです。
もうね、この思いを得ることができただけでも僥倖なの。僥倖、なんですよ。偶然の幸せ。


それにしても、何度経験してもハマりたてというものは楽しいものです。
自分にもまだこんな熱量があったんだ!という驚きと歓びと。

(ぶっちゃけ、もう私にはこんなことはないと思ってた。だからなおさらビックリ)
この楽しさが消えた時、私はまた「偶成」を聴いて涙するようになるでしょう。だって、そこは私のホームだからね。いつだって、ここにあるの。
でも今は、めくるめくキラキラの世界のターンにいたいのです。キラキラ世界はアウェイだけど、その分、ドキドキしてますよ。

 

たぶん、起こることの全ては必然なのです。
なので、忸怩たる思いはあるものの、悪びれることなく、「しょうがねぇな」って感じで、不埒な自分をまるっと認めちゃおうと思い、繰り言を書きました。
これは自分自身の感情の記録。いろいろと思うことがあったので、覚え書きです。