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違和感のある言葉について考えてみる

TV


なんとなくつけてたTVで「孤独死ドキュメント」ってのを見ました。
大原麗子の一代記みたいなのがあって、ついつい引き込まれ、最後まで見てしまった…orz)
この「孤独死」って言葉、なんだか妙にひっかかるんですよね。
無縁社会」って言葉に感じたのと似たような違和感。
この言葉の中には、ただ”一人きりで亡くなった人”を指す以上の含みがあるように思えます。
”こんな生き方をしてると寂しい末路が待ってるよ”、という一種の脅しのような?煽りみたいな?
”こんな生き方”ってのはたとえば無職だったり未婚だったり子どもがいなかったり地域に馴染まなかったり…ってことですが。
孤独死」「無縁社会」という言葉に、なにか全体主義な匂いを感じるのはそんなところからきているのかも。


こういう問題が取りざたされると必ず「人と人とのつながりがなくなった現代社会」という文脈になる。
そこでは必ず「共同体が失われ」とか、「隣近所のつきあいが希薄になり」とかでてきます。
こういうこという人って田舎の共同体の監視社会を体感したことがないんだろうなぁと思う。
ムラ意識が強いってのは逆に言うとすごく排他的ってことなんですよ。
個々人の単位で動いてる都市生活者には考えられない理不尽が渦巻く窮屈な社会です。
そんなところで無理して共同体に加わるくらいなら、都会の片隅で誰にも知られずに生きてるほうが何倍も自由で楽しいと思うけどね。
まぁこんなのも私個人の価値観だけどさ。


そもそも一人暮らしで誰にも看取られないのは悲しく、不幸なことなのか?
そんなこたーないでしょう。
一人で死んでもすごくシアワセな気持ちで逝った人もいるだろうし、たくさんの人に見守られて死んでも無念の極みで逝った人だっているでしょう。
そんなのイロイロですよ。人生イロイロ。
死に際して不幸だったか、幸せだったか、孤独だったか、夢あふれていたかなど誰も知ることはできない。
その死に様から他者の人生をあれこれ想像し、自己の拙い人生観に当てはめて評価するなんてのは、あまりに不遜。
妄想ならともかく、まるで事実であるかのように他人の死に様に「孤独死」なんて言葉をあてがうことは、それこそ人間の尊厳を傷つける行為だと思います。


まぁ、フタ開けたらこの番組は映画「アントキノイノチ」の宣伝だったワケですがw
映画の宣伝に人の死をもってきちゃうあたりのちゃっかりぶり。
これこそがまさしく「生きてゆく」ってことかもしれません。
実際問題として遺品処理業者の役割は大切だし、これからもっと必要になってゆくのでしょう。
独居世帯が増えて人手が無いのだから当然ですね。
映画の宣伝だとしても、こういう職業があるのを知らしめる機会になったのはいいことだと思います。


以前読んだ霊媒師さんの話では、亡くなった人のかなりの数の人たちが、自分が死んでいることに気がついていないのだそうです。
継続した眠りの夢の中にいるような状態っていうか…。
まぁ、こんな話はオカルトだけど、でも、なんだかそういうこともあるのかもなぁという気もします。
「死は残された者のみに与えられる」という言葉もあります(誰の言葉だか失念!)
要するに、死んだ本人には死の認識などもちようがなく、愛するものを失った人=残された人ばかりが悲しみや喪失感を抱えてゆく、ということです。
「死」は、その本人ではなくて、残された者のみが認識する概念なのですよ。
ってことで、孤独死を恐れることなんてないの。
そんなことよりも、生きてる「今」を大事にすべきでしょう。
人生、誰しもそう長くはないんですからね。
「100年経ったら誰もいない」んですから(←これは私の大好きな言葉です。いろんな人が言ってるけど、私が出会ったのは寺山修司の「田園に死す」)
毎日を存分に楽しんで、愛して、感じて、明日を夢を見て種を蒔き、大いなる愛によって与えられた命が続く限り、感謝の気持ちで暮らすことが何よりも大切なんじゃないすかね。