花は、咲く。


5年前の今日は、ついさっきまで元気に暮らしていた大勢の人たちの命が一瞬にして奪われた日。
震災で命を落とされた方々に、哀悼の意を捧げます。
そして、被災地の方々にお見舞い申し上げます。


TVでも新聞でも、震災を振り返る特集がたくさん組まれていたけれど、被災地の風景はいまでも寂しく、失われたものの大きさを感ぜずにはいられませんでした。
「復興」という言葉は、紛うことなき「善」として、偉大なる目標として、あの日以来掲げられているけれど、失われた者たちが二度と帰らない場所で聞くこの言葉は、なんだか少し虚しく感じる。


もう5年。
まだ5年。
時間は、人それぞれの時間軸でしか動かない。


TVの震災特集で、大学の卒論に「幽霊タクシー」の話をまとめた学生の話が取り上げられていました。
東日本震災の被災地には、幽霊話がとても多いのだけれど、そういった体験をした人たちの多くが「怖い」とは思わず、畏敬の念を抱いているといいます。優しく、懐かしい気持ちになるのだ、と。
そこには被災地の独特な死生観が影響しているらしい。
つまり、「あちら(あの世)」と「こちら(この世)」の間に「中間の場所」というものがあって、それが残された者たちの拠り所となっているのではないか…と、論文の担当教授が分析していました。
あれだけの衝撃で傷だらけになった心に於いて、「生」と「死」をぷっつり離れた境地としてとらえることはあまりにも辛い事なのです。
そもそもその思想(あの世とこの世という二極観)は仏教からきてます。
幽霊を「成仏できていない(可哀想な)存在」ととらえるのも、そこからくる。
人が幽霊話を忌避するのも、霊魂が成仏できていない(=よくないこと)という意識があるからなのですが、未曽有の災害で圧倒的な死が日常に入り込んでしまった被災地に於いては、「生」と「死」はもっと地続きなものであり、ゆえに幽霊話も忌避すべき恐ろしいものとはとらえられず、畏敬の念をもって迎えられているのだろうと感じます。
従来の(既成の)宗教にリードされた死生観を離れた、天然の感覚なのかもしれない。
こうした感覚に身をゆだねることで、残された者は自らの力で心の傷を慰撫できるようになっているのでしょう。
私の感覚的にも(仏教徒ではないせいか)あの世とこの世という考え方よりも、このほうがしっくりきます。


「人は死んだら終わりですか?」
と問う被災者の声に、胸がグッと詰まる思いがしました。
それは、きっと違う。
いや、絶対に違います。
亡くなった者たちは、そこで終わってしまうわけではない。
別の形でずっと生き続けている。
残された者たちの記憶の中で、支えとなり、励ましとなり、生きることの意味を気づかせ、知らなかった世界を見せ、新しい地平に種を蒔くことの意味を教えてくれる存在として、残された者たちが生き続ける限り、共に生きているのです。
何度季節が巡っても、花は咲きます。
これからもずっと。