『小さな私』(小小的我)

東京国際映画祭2024にて『小さな私』(原題『小小的我』、英題『Big World』)を見ました。今回がワールドプレミア。

 

2024年:中国映画。(ヤン・リーナー)監督作品。游晓颖(ヨウ・シャオイン)脚本。
易烊千玺(イー・ヤンチェンシー)、林晓杰(ダイアナ・リン)、蒋勤勤(ジャン・チンチン)、周雨彤(ジョウ・ユートン)

以下、ネタバレもあるかと思うのでご注意ください。

 

ざっくりとした言い方をすると、脳性麻痺の青年・劉春和(易烊千玺)が不自由な体や社会の無理解、母との確執など自分の境遇を乗り越えて自立してゆこうとする物語。
そこに障碍児を抱えた家族の葛藤、自らも子育てに後悔を持つ祖母の想い、友人以上にはどうしても踏み込めない女友達の想いなどが絡んできて、なかなかにハードな内容。
けれど、重くなり過ぎず、苦しみも悲しみも喜びもとても自然に描いてる。

可笑しいシーンもあるし胸が苦しくなるシーンもある。笑いも慟哭もある。人生そのものがある。

チェンシーの演技を見て、私は一つの大きな気づきがありました。
映画の感想として、ここではそのことについてだけ書きます。

それは、「人間の尊厳、存在価値というものは誰もが等しく持ってるものなんだ」という感覚です。
え?それって、当然だよ、って思うでしょ。

概念ではみんなわかってることなのよね。
この作品はそれを”身体的感覚”で示して見せてくれるのです。
からしっかりと「腑に落ちる」感じがあるの。

この作品は多層的で、親子の葛藤、社会と障がい者の問題、個人の意思の力の重要さ…などなど、たくさんのテーマが内包されていて、見る人によってさまざまな観点があり気づきがあると思います。それはその人それぞれの立場にもよるでしょう。
妊娠中の人、子育て中の人、受験生、求職中の人、ツラい日々に苦しむ人、恋する人、絶望している人…それぞれに。
私は老いゆく身として”思う通りにならない自分”に自然とフォーカスして見ていた気がします。皺が消えなくなり白髪が増え続け、以前のように走れず、すぐ疲れちゃう…こんなはずじゃなかったのに、と感じている現在の私は、いずれ自分は思うように身体を操れずに歯がゆく悔しい思いをし、社会からも冷遇されるのだろうなという予感(不安)に満ちている。
老いないものは誰もいないし、病気にだっていつ罹るかわからない。ままならないのが人生。自分の体だって全く思うようにはならないのです。誰もがいずれ、ある意味、春和と同じ”立場”になる。
美しく健康で太陽のような恋しい女友達だって、いつか老いさらばえて歩くこともままならなくなる日が来る。

今まさに眩しく輝く若きスターであるチェンシーが春和を演じることで、その問いかけをこちらにしているように感じました。


「もし僕が春和であっても、あなたたちは僕をキャーキャー言いながら追いかける?」


とずっと問われている気がした。
その装置としてわかりやすいのが、春和が夢で見る”健常な自分”と彼女とのデート場面です。ここだけ、普段の(健常な)チェンシーが見られる。
いつもながらにカッコいい。素敵だ。ああ、こんな人が恋人だったら彼女もメロメロだろうなぁ…と。でも、目が覚めると彼は不自由な体を持った春和なのです。

ここにいるチェンシーファンの何人がチェンシーに恋するように春和に恋するだろう?
どっちも同じ顔と体を持ったチェンシーだよ?違うのは動きだけなんだよ?という、問い。
深いよね…。
春和は…無理だな。だって正直、大変だもん。
という、その感覚。

いい人だし、好きなんだけど、パートナーにするのはどうしてもムリ…という悲しい感情を、周雨彤(ジョウ・ユートン)が本当に上手く演じていて、心にグッときました。友だちとして彼女はとても親切で温かい。偏見もなく、フレンドリーなのです。本当にいい子。
でも、春和に恋心を向けられたら…「ごめん、ムリ…」ってなってしまう。罪悪感と嫌悪感と憐憫と愛情の混じった複雑な役でしたが、その表現は見事でした。

春和が大切にし、心のよりどころとしている骸骨の人体標本がとても象徴的にたびたび登場します。
一皮むけばみんな骸骨。どこが違うんだよ?
春和の無言の抗議が聞こえてきそう。
あくまでも”身体的な話”として、春和は常に最奥の骸骨に立ち返ることで、自尊心を保ってるのかもしれない、と感じる描写です。

身障者も老人も生きてゆく上での不自由が多くて難儀だし誰もなりたいと思わない。ああはなりたくないな、って思う。だからこそ可哀想とも思うし、気の毒だ、哀れだとも思う。そうではない立場から。

でも、誰もがいつそちら側に行くかわからないという点で、私たちはみな「同じ」だと気づいた時、彼らを見る視線は変わる気がする。その視点を持つか持たないかは雲泥に違う。そしてそれは社会において必要な「優しさ」に繋がる。そしてたぶん、この経路での気付きでなければ真の理解にはつながらないのだと思う。
「可哀そうだから親切にしよう」という道徳では限界がある。むしろ無理解に等しいのかもしれない。

この作品は、道徳的観点だけではなかなか伝わらないことを、実感(身体的感覚)として伝える凄い作品だと思います。お涙頂戴の病気モノではない。泣いても叫んでも自分の道は自分で決めるしかない!生きるぞ!というパワーを感じる。
それを圧倒的な人気があるチェンシーが圧倒的な演技で演じてみせたことに意味がある。

チェンシーの演技はもう、もう、もう、圧巻の一言です。追随者はたぶんこの世代にはいない。記録にも記憶にも残るであろう最高の演技です。
彼は勝ち気で努力家だからきっとあの演技の裏で膨大な時間を費やして研究を重ねたのだと思う。絶対に誰もついてこられない場所までたどりついてやる、っていう並々ならぬ決意と気迫を感じました。そういうとこがまた、とてもチェンシーらしくて頼もしいんですよねw
これでまた一つ、大きな足跡を残したと思います。どこまで大きくなるのだろうなぁチェンシーは!

会場は体感9割近くが中国人でした。しかも熱狂的なチェンシーファンが多数。若い子ばっかりw その勢いには圧倒されました!
チケットをとれなかったであろうファンたちも入り待ち出待ちだけは見ようと丸の内TOEIの入り口付近に集結。身動きができないくらいの混雑ぶりでした。(でもチェンシーはその中を通って会場入りも退場もするのだからビックリ。チェンシー、お疲れ様です)


チェンシーのファンは本当に熱心。
渋谷、新宿、有楽町に展開されてるデジタルサイネージやポスター広告も凄いし、会場で配ってた有志ファンによる記念グッズも素晴らしかった。これ↓


中国のファンの子はこの機会にチェンシーの日本での知名度を上げたい、と言ってたけど、ほぼほぼ中国人が中国人に向けて伝え、盛り上がってる印象でした。
日本人の普通の映画好きの人が今回の争奪戦チケットを取れるわけがないし、ゆえにこの映画も(ごく一部の人以外)日本人には見てもらえてないのですよね、現実は。
日本でのチェンシーの知名度を上げたかったら、映画を広く見てもらう事しかありません。いい作品なのでぜひ配給がついて日本の各地で一般公開されるよう願っています。

 

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