台湾には張震嶽がいる。
私にとっての、それは台湾の全てかもしれない。
…と、これを聴いてそんなことを思いました。
なんでしょう、このジャケ写は。ツボ直撃なセンチメンタル攻撃に涙が出ます。
飛行機の翼と眼下に広がる町。
行く先には果てしない青空。
張震嶽の新譜「再見」(good bye)です。
同時収録「山地小情歌」「山上的女孩」+「再見」MV映像入り。
「再見」はこないだもちらっと書きましたが、まるでテレサ・テンが歌うような歌です。
それは言葉を変えたら「懐かしい台湾風」ということで、もともと台湾歌謡が好きな人にはとても好かれると思います。
で、私もとてもこの曲が好きです。
すぐに覚えてしまったし=つまりいつでも口ずさめるし。
でも、これが「あの」張震嶽のものだというのは、ロックな、またはテクノな張震嶽から好きになった人は戸惑うかもしれないし、そうでなくとも「阿嶽節」ではないので「え?」と思ってしまうかも。
「山地小情歌」は「再見」とは真逆の歌詞のラブソングです。
真逆なんだけど、表裏とも取れるかなー。
歌いまわし、リズムの取り方、サビへの入り方などがとっても「民歌」風です。
アミ語の歌詞が入ってるし。
今このときにこの歌を歌いたいという阿嶽の心を覗いてみたいなぁ~という気分になります。
「山上的女孩」は、「これ、なんでこんな昔懐かしい阿嶽節をつかってるんだ?!」と驚いたんですが、1996年の作品でしたのね。アルバム未収録作です。
メロディも進行も、私が好きになった頃の阿嶽の作風です。
アレンジだけはチョイ今風?
でも、懐かしい!歌声を聞いてるだけで、なんだかあの頃の映像が浮かびそう(例えば「秘密」のMVのギター弾く姿、とか)。
かつて私は張震嶽の音楽活動を
「上昇してゆく螺旋階段を昇るかのよう。ぐるっと回れば同じ景色の場所に出るけれど、それは以前見た景色より拓けている…というような」
と表現したことがありますが、張震嶽はとうとうその螺旋階段の最上階までたどり着いてしまったのかもしれないと思わせる作品でした。
そこから見える景色は今までと違っていた。
違っていたけれど、それはいちばん自分がよく知っている景色。
山の向こうに突如、開けて見える地。
それは、懐かしい故郷の地。
…みたいな。(わかりにくくてすみません。全て私の妄想。)
とにかく、螺旋階段の天辺には、離れてきたはずの自分のルーツがあったのかもなー、と。
そういった収まりのよさを感じさせるマキシになってると思うの。
阿嶽は阿嶽でなければ、そして台湾のフィールドでなければ表現しえない「ある物」をもっています。
その「ある物」は、私の中で独自のストーリーをもって立ち現れ、私が彼の音楽を聴くときに欠かせない「核」となっているのです。
たぶんそれは私が阿嶽のファンだからで、ただ純粋に音楽を聴いているだけではないからですが。つまり音楽を聴く姿勢としては邪道なんですが。
端的に言うと、それは「逃避から回帰へ」という行動に重なるイメージです。
私の思い描く張震嶽のイメージは、
「自分のルーツから抜け出し逃避し新天地へ赴き、その後もまだ見ぬ場所へ憧れ、転がって行く人であれども、いずれはルーツに戻る宿命を持った人」なのです。
最後には必ず「あの山の向こう」に帰っていってしまう人。
奇しくも主演した映画「超級公民」でも「走到底」でも、彼はまさにその通りの行動をする男を演じています。(しかも両方とも魂だけ帰る。本人いなくて遺影だけ。)
わりとこういうストーリー性…というか、イメージが阿嶽のデフォルトとしてついて回っているのかもしれない。
張震嶽は単なるそこらの若者ではなくって、何か、大きなものを背負っている(それが伝統なのか記憶なのか血なのかわからないけれど)という「深み」は、少なからず感じられてるのかもしれない。
阿嶽には原住民の血が流れている。
それは(阿嶽にとっては)あまり意味などないことで、阿嶽はそこから語られることをきっと好まないんだろう…と私は勝手に思っていたのですが、まったくそうではないようです。
阿嶽はずっとその中で生きてきたし、これからも生きてゆく。原住民であることは、阿嶽の母体なのですね。魂の在り処だ。
これまでそのことをあまり「音楽的に」表明してこなかった阿嶽が、このアルバムでは全方位で宣言しているように思えます。これは、タイトルチューンの「再見」という曲とあわせて考えてみて、なにかエポックな感じがします。
阿嶽は上昇してゆく螺旋階段を昇るのはもうやめたのかもしれない。
それは自分のHometownを見つけた(思い出した)からなのでしょうか?
…というわけで、今後の方向性がますます楽しみになってきました。
つか、いつでも楽しみなのだが(笑)。
今後は、よりフォークロアに、より等身大に、そして「今」の阿嶽を見せてくれる音楽が聴けそうな気がします。