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「KANO 1931海の向こうの甲子園」

movie



高校野球好きのボクちゃんが、センバツ終了後のロスwを埋めるためか、「KANO」を見たいと言い出したので、一緒に見ました。
私は2回目。
これ、公開当時見に行けなかったんですけど、DVDを買って(発売前にアマゾンで予約までして)観ました。
馬志翔(マー・ジーシャン)の初監督作品だし、魏徳聖(ウェイ・ダーション)の映画だし、日治時代が舞台の物語だしで、めちゃくちゃ楽しみにして、期待しまくってたんですけど……期待値のハードルを高く設定しすぎたせいか、実際観た時に思ってたのと違ってわりとショックだったんです。
(思えば「海角七号」の時もそうだった…。)
だから特にブログに感想を書くこともなくスルーしてしまったんですが…
今回2回目を見て、期待外れに感じた理由などが見えてきたので、少し思ったことを書いてみることにしました。


私が最も気になったのが音楽の使い方です。
これがダメだと私はもう全然ダメなのね。
とにかくこの映画、BGMが流れ過ぎ。しまいにはイライラしてくる。
だから作品世界に入り込めなかったんだ、と気づきました。
ちょっと前まで台湾映画っていったら、「無音」の時間が多いイメージでした。小津の作品みたいに静かな印象ね。そこが冗長で苦手というヒトがいたくらい際立ってたのに、最近の台湾映画は安っぽいMVみたいに音楽が溢れかえってる。何もかもが、音の洪水に流されてしまう。余韻もへったくれもない。
戦前の話だぞ。セミの声、蛙の声、風の音、ラジオの音、人の話し声…聞こえてくるのはそういったもんしかない世界のはずではないか?
その「(音の)間」も物語になるのに。
エンタメとして見せるのにそれだけでは間が持たないのはわかるけれど、常に音楽が流れているというのはこちらの思考を停止させる。
BGMなんかいらない。


それと、3時間越えという長さを使っているわりに人物が描き切れていない。
なぜこうなったか?簡単に言うと盛り込み過ぎ。盛り込んでいる割には、そのエピソードがさほど印象的でない。
書店の女の子への恋や(たいしたことない)、監督の過去に関しての探り(憶測の域を出ない)、札商のピッチャーの存在(唐突過ぎる)などは、必要だったろうか。
それ以上に必要と思われるチーム内の人間描写が薄いので、最後の「ナインのその後」の感興も薄くなってしまう。
ああいった字幕(アメリカン・グラフィティ方式)を最後につけるなら、それなりに登場人物をキャラ建てしないと生きてこない。球児たちの話なのだから、球児たちの人物、関係性の描写にもっと時間を割くべきなのではないかな。


ダメ出しばかりではなんですので、よいところも挙げてみます。
映像はすごくきれいでした。台湾の広がる稲穂などの自然風景もすごくよかった。
街並みや住居など、時代を写したセットの様子も臨場感があってドキドキしました。
映像・美術は二重丸でしたね。
それと、何よりも本丸の野球のシーンが本格的。
役者(野球経験者とはいえ)が演じてる感はまるでなく、みんな本物の球児のように自然な動きをしていました。
ここが素晴らしかっただけでも、この映画は成功しているのかもしれない。だってやっぱり、これは野球映画なので。


こう書いてみて、ホントに音楽だけでもどうにかしてもらえたらもっと感じるところは違ったのに、という思いが強いですねー。
ネットなどを見ると、この映画は「感動した!」という絶賛が多いようだけど、たぶんそういう人たちはBGMが気にならないタイプなんだろうな。
お店なんかを歩いてても、音楽がうるさくて気が変になりそうなところがよくあるけど、みんなわりと平気な顔で歩いてるもんね。これはもう個人的な感覚の差なのか??


ちなみに「見たい」と言ってた当のボクちゃんは、3時間越えの長丁場もちゃんと見てました。
野球の試合話と登場人物のその後(要するに史実としての部分ね)に食いついていたので、そういった層(野球好きな小学生とか)にとっては、こういった史実があったことを伝えられただけでもこの映画は意義があると思います。


それと…
台湾に一方的に恋してる私が勝手に思うことなので、倫理的な批判をされたくはないのだけれど、こういう物語に触れるたびに私は心の底から思うのです。
「あの戦争さえなかったら、台湾は今でも日本だったのに」と。
夢やマボロシを見るように、センチメンタルな想いを抱えながら、そう思う。
侵略者のまなざしではなくて、同胞のまなざしで。
侵略した側のオマエが言うな、といわれるかもしれないけれど、もうそういう世代を越えた贖罪意識は何の得にもならないので、史実を理解したうえで、あえて乗り越える意識も大事だと思う。
この映画を製作している魏徳聖も、そういうところはすごくフラットにとらえていて、私はその姿勢が大好きなのです。
親日でも反日でもない。ただ、かつて台湾は日本だった時代があった、という事実だけを見ている。
(あ、でもこの作品にわざわざ八田與一を出してきたのは、日本贔屓かもなぁとは思った。嬉しいけれど、八田先生、特に必要なキャラじゃないもんね(^^;)
魏徳聖のフラットな視点は、こちら側に侵略者の贖罪をもって接することや、恐縮して心理的な距離を置くことを求めない。そこがすごく(日本人としては)気がラクです。
私が台湾に惚れ込んでからもう20年ほど経つけれど、今でもあの国がかつて日本だった、ということに気づくたび、私の心はいちいち衝撃を受ける。
わかっていたって、何度も、何度も、いつも、繰り返し、幻に出会ったように、驚いてしまうのです。
その驚きが「嬉しさ」であることを申し訳なく思いながら20年。
この、私の日本人病(?)にとって、魏徳聖のフラットな視点はある種の大いなる救いなのです。