ブログの僻地で


リアル社会でもおいてけぼり風味の私ですが、ネット社会でもかなりポツンとしているのを感じています。
昔はあんなに周りが賑やかだったのに、ホントに寂しくなりました。
以前、そんな自分を「人里離れた砂漠で寂れたダイナーを経営するDJ」に喩えたことがありました。
ラジオのDJに憧れるのは、「アメリカン・グラフィティ」に出てくるウルフマン・ジャックの存在が大きいんですけど、DJが持つ根本的な存在感に憧れているんですよね。
「閉じた空間から私一人で言葉を発することができて」
「誰に届いているかわからないけれど確実に向こう側に誰かがいて」
「その誰かは私の言葉を聞くも聞かないも自由で」
「その自由に私はなんら関与しない」……というところに、うっとりと憧れてしまうのです。
深夜に独りでPCに向かっていると、私はどこか自分がウルフマン・ジャックになったような気持ちになる。
そしてそのイメージは私にとって最高にロマンティックな想像です。


話は逸れましたが、とにかくそのラジオの電波も半径50メートルにしか届いてないんじゃないかっていうくらい、あたりにひと気もなくなり、どうやらいよいよ人の往来も途絶えたか、的な感慨を抱いていたのですが、最近、「かつてここにいた人たちが(ネットから)いなくなってしまった」のではなく、単に場所を変えただけなのだ、ということに気づきました。
私の周りから人がいなくなっただけで、みなさん今でもいろんなところで元気に明るくネット活動している。
「あれ?みんなどこにいちゃったの?もうネットなんかやめてしまったのかな」と思っていたかつてのお知り合いの人たちが、こぞってツイッターだのフェースブックだので楽しそうにわいわいやってるのをふとしたことで知ったりする。
ブログもサイトも閉じちゃって心配したけど、なんだ。ツイートしてるんじゃん。
自分だけが新しい世界を知らずにいつのまにかおいてけぼりになってたことに気づく。
時は流れ、かつて仲間だったあの人たちとはもはや世界が違う。
忘れられ、風化してゆく彼らの中の「私」。


だからどうということはないけど。
そもそも活発なコミュニケーションを欲してこんなことをしているわけではないし、それが欲しけりゃツイッターフェイスブックをやればいいわけで(どっちも嫌いだからやりませんけどね)。
私はかつてのように皆に聞かせる話題なんぞゼロだし、誰とも話なんか合わないし、誰かと分かち合えるものもないし、そもそもネットに何も期待していない。
あんなに、宝箱のように可能性にあふれていた目の前のモニターは、今や私自身しか映さない。
いや、それさえ錯覚だ。
ここにはなにもない。


でも、その「なにもない」砂漠に、私は今日も足跡をつける。
「なにもない」ところの唯一の痕跡だ。今日思ったこと考えたこと、生きている証。
広い砂漠に、自分の足跡だけがずっとつながっている風景を想像してみる。
延々と続くその軌跡を見て私は思う。
「たった一人の世界を自己肯定できない人間が、世の中に出てどうやって他者に認めてもらえるというのか?」と。
その思いだけが、私がこのブログという場にいることを支えてる。
本当は誰かに見ていて欲しいんだ。
でも、それを言っちゃぁオシマイで。
いつか誰かに認めてもらえる日が来るまで、コツコツとやるべきことをやってゆくしかないんだなぁなんて考えたりする今日この頃です。