私とよく似た、対岸の彼(エレカシとジェンダー論)

アルバム発売に先駆けて、エレカシの露出が増えてます。
最近はよくTVにも出るようになってますが、こないだ見た関ジャニの「関ジャム」っていう音楽バラエティ番組は、なかなか貴重な映像が見られましたよ。
古地図を熱心に語るミヤジ、古書だらけの自室動画を勝手に撮ってきて公開するミヤジ、調理家電をお試しするミヤジ、などなど。可笑しかった。
話すと面白いキャラなので、イイ感じにいじられてました。
関ジャニに対抗して(?)TVうつりを気にしてましたが、とても来年50には見えないくらい若々しかったので大丈夫ですよw


でも私、実際のところエレカシがTV出てるのとかあんまり見ないほうがイイな、と最近は感じてます。
見るたび、なんだかモニョるんだもん。
それはきっと、ミヤジがガッツリとホモソーシャルなのを目にするのが嫌だからなんだな、と気づいたのです。
私はもともと「ダメ感」が強い人間なんだけども(そこがエレカシの曲に惹かれる精神性でもあるわけなんだけれども)、そこにもってきて女だというだけで「ご遠慮」されちゃってる(女はベツモノ。歌を届けたいのは男たちなんだ、とミヤジは思っている、という意味で)のを感じると、けっこう落ち込むんですよね。気持ちの中で不貞腐れちゃう。
女だっていろんなのがいるんだよ。くくるなや、って思う。
たぶんミヤジはずっと気持ちが男子高生のままで(私は男女別学支持派なのでそれ自体は大いによろしいと思っている)、もちろん悪気なんかないし、女性が嫌いなわけではないとも思う。
ある意味、純粋培養で、だからこそ生まれてくる世界観のようなものがあるし、それがミヤジの良さなのです。
ミヤジに、変わって欲しいとも思っていない。
今のままのミヤジ(の世界観を)私は好きなのだから。


でも私は、彼の作る曲に心底同調・共感しているにもかかわらず、実際の性別は女なので、その世界観の中では潜在的に排除の対象になっている…という構図が苦しい。
「このヒトは私とそっくりだ」という親愛の感覚を抱えながら、同時に疎外の感覚がある。
そんなわけで、ミヤジの言動はある程度見ないふりをしないともたないなぁってのを薄々感じていて、じゃぁ曲聴いてるだけでイイや、って思うんだけど、曲にだってモニョるものは多々ある。てかほぼそんなのばっかだ。
そりゃ曲はそれを作る者の思想の集積ですからねぇ、逃れられない。


例えば、「七色の虹の橋」って曲の中で、「彼女とのデートはいつも古本屋で待ち合わせ。古本の背を追いながら未来を思う俺と、インテリアの雑誌をつまらなそうにめくる彼女」みたいな歌詞があるんですよ。
その曲、すごく好きなのに聴くたび気持ちが寂しくなる。
私はその「男」(つまり主体としてのこの曲の世界観)にすごく共感するんだけど、実際は女であるから、そこに踏み入るべき対象ではない、という区分を与えられている。オマエはお飾りなのだよと言われている気がする。
そこがキツイ。
細かいことを言うようですが、古書好きな私にとっちゃちょっと捨て置けない、というのもある。
神保町は私にとって聖地ですからね。こだわりとトキメキをもって対する愛しい世界だ。
けれどミヤジに言わせると「古書は男のロマン」だそうなので、女である私はそこではきっと異端なのです。(そこ=ミヤジのイメージん中ってことですよ。実際問題では無しに)
そういう感覚が、この歌には滲み出てる。
きっと、女が本を読むのって恋愛小説かインテリアの本くらいにしか思ってないんだろうなぁと思うと、なんかもう…
…魂がシーンとした深海に静かに静かに沈んでいくような気分になる。
寂しい。


エレカシの曲というのは、そういった意味ではわりかし地雷だらけなんだよ。
そりゃ大好きなのだけど、ある意味社会性を排除しながらでないと冷静に聴けない。
エレカシを聴くとき、私は「人間」であって「女」ではない。
ジェンダーは存在しない。
フツーに過ごしてる私に普段ジェンダーはほぼ無いので、エレカシの世界観は大いなる共感と同調をもってまんま私は受け取れちゃうんですけどね。
でもやっぱり「男が」「男の」「男は」ってあんまり言われると、忘れてるはずのジェンダーを引きずり出される。
やっぱり女はいちゃいけない世界なのか、と、現実の社会性を思い出して負けそうになる。
たとえ私が自分の性別に無頓着であっても、他者からはどう見ても女だからね。


それはわかりやすく言うと「水曜どうでしょう」なんかにも似てる。(←ウチのボクちゃんがマニアなので私もこの番組は全部見てる。DVDになってないものまで。ヲタがいるからその余波でかなり知ってる)
言葉には出されてないけどあれもかなりのホモソーシャルだ。
女たちに対して、「君たちを対象に作ってないから」っていう、ヒゲの無言の圧を感じる。
「野郎ども!いぇーい!」みたいな。
女があの世界を好きになったら、いわれなき茨の道を歩まされる感じする。
(ちょっと鋭い人だったらね。野球部の女子マネージャーになるのが好きなタイプの女子だったら問題ないんだろうけど)
そういうのを感じながらどう楽しむか、だよね。
自分の中の「男」を楽しむのか、社会的な「女」に負けて悲しくなるか。男だけが寄り集まって閉塞した感じだからこそ(むしろ女にも)人気があるというのはもちろんだし、そのことを批判しようなんて全く思っていないし、「女も数に入れろ!」なんて言う気はさらさらないのですよ、誤解無きように。
ただ、そういう世界にハマった女はいろいろ大変だな、と(同類として)思う、というだけの話です。


エレカシのライブに行くのがなんか気が引けるってのは、まぁぶっちゃけこういうのもあるんですよね。
エレカシには女の追っかけファンがそりゃ多いのだけど、ホモソーシャルな男も多い。
「女にエレカシを語って欲しくない。わかるわけないから」っていう人たちね。
言葉がないよね。凹む。
わかるわけがないそうです。ふーん。女ファンはミヤジの顔ファンくらいにしか思ってないんだろうな。
だいたい性別なんて、精神性にどんだけ影響あるってのか?
人間をそんなに単純にくくるなんて頭が悪いにもほどがある。
……とか、オトナゲなく憤ってしまう。みっともない話だけど。
なので、ライブに行くとなると、ある程度、自分が何に失望し、何に傷つくか想像できるんですよ。(グッズには「男」って書いてあるTシャツまであるからね。それはもう意識するかどうかという問題以前に、私が着るようなもんじゃないわけだろ)

私が真に自由でいられるのは私のイメージの中だけなのかもしれない。
そこはいつだって幸福なサンクチュアリです。女でもなく、年増でもなく、自由で、どこにでも飛んでいけそうな唯一無二の「自分」という個でいられる。私の中のイメージこそが私にとっての現実で、ここ以外で生きてゆくのはとても大変だろうと思ったりする。外の世界なんて、幻想でしかないのかも、と。
でも、自分のイメージの中だけではどうしたって限界がある。だから現実にだって船出してゆく。座礁するかもしれない海に。そこにしかないものがあるから。ミヤジの歌を聴くのにも、たくさんの葛藤と向き合わなくちゃならない。闘いながら、聴いている。
言ってみりゃ己のイメージと相克の歴史…なわけですよ。
…いやまさにこれこそミヤジの世界観の体現じゃんかっていう。(注:エレカシの「化ケモノ青年」という、実にホモソーシャルな曲の中で、この「己のイメージと相克の歴史」ってのは基本ワードなのです)


(No.3)