ここにかうしてわたしをおいてゐる冬夜



叔父が亡くなり、通夜、告別式と故郷に帰って葬儀を終えてきました。
叔父さんの血筋は短命で、親兄弟よりも長く生きられてよかったと言った当人がまだ享年76であり、80さえも超えること叶わなかったのが寂しいです。
人を送る時にはいろんなことを考えてしまうものですが、こちらも年をとったせいか、以前よりも細かいことにいちいち心が動き、ずっしりと重く感じます。
これからはますますこんな場所に来る機会が増えるのか…自分も早晩、そちら側に行かなきゃならないのか、などとつまらないことを思って気分が沈んだり。年をとるのはイヤなもんだね。


そんな時でもやはり心が明るくなるのはちいちゃな子どもたちの存在ですね。
叔父さんには成人した子からまだ2歳のちいちゃな子まで9人もの孫がいて。一番末のお嬢ちゃんが思いっきり泣いたり笑ったりじつに可愛くて……その様子を見ていたら、なにか重苦しい気分も忘れられました。
人は誰でも必ずいなくなるもので……でも、続いてゆくものでもあるのだと。
命とは、すべてがそういうものであることをあらためて感じいりました。
私へと続く亡くなりし人々や、私から続くその先の命を思い、連綿たる大河の果てで、いまここにポツンと生きる自分を実感しています。


表題はそのような気持ちを投影している種田山頭火の自由律俳句です。
「冬夜」というのがいいですね。
しんしんと更けゆく夜に、この「今」の存在をみつめるのであります。


葬儀の後なので、今日は地元神社にお祓いに行ってきました。
神殿に上がり、祓い、清めてもらいうと、実にスッキリと浄化されて心身が整います。
心が軽くなり、体の奥から気力が湧いてくるような気持ちになりました。



神社で御札と共に拝受した御干菓子。
これ、大好きです。