楽しむ者への憧れ

常日頃自分の年齢なんてうかうかすると忘れてしまうのだけれど、よく考えるとかなりな大人で、この歳までこんな体たらくだとは若き日の自分が知ったら呆れ果てるだろうと恥ずかしく思いつつ、ただ徒に日々を重ねています。
水は低きに流れる、というのが自然だけれど、意志ある人間としてもうちょっと頑張れないものかと、自省の日々です。
何も成しえていないという思いと、欲しかったものは全てあるという思い。
無限の可能性があるという希望と、もはや余生しか残っていないという絶望。
相反する思いが心の中をグルグル日替わりで回っています。
最近、心に留まった言葉があります。

「知之者不如好之者、好之者不如樂之者」

論語です。
「これを知る者はこれを好む者には及ばない。これを好む者はこれを楽しむ者には及ばない。

知識だけ豊富でも、その分野がたとえ好きでも、我を忘れて夢中になっちゃう情熱にはまるでかなわない。

このエッセンスは、以前目にした為末大さんの言葉と同じです。
曰く、
「たとえ死ぬ気で努力しても本物の才能には勝てない。(中略)必死で我慢している努力を楽しいと感じている人もいる。こちらの努力があちらの道楽。頑張る人は楽しむ人に勝てない。」

しみじみと実感する言葉です。
「頑張る人は楽しむ人に勝てない。」
ですよ。

ホントにそう。
実感としてこれは本当によくわかります(どっちの立場も経験したから)。
人間が最高のパフォーマンスを発揮できるのは「心から楽しいと思えることを夢中になってやる」時なのです。だから何かを成しえようと思ったら、「自分のできること」を探すより「自分が楽しめること」を探した方が絶対にイイのです。

今、私が「心から楽しめること」はなんだろう?
なんだろうなぁ…なんて考えている時点で、今は巡り合えていないのだとわかります。
そりゃ楽しいことはいろいろあるよ。私は割と何でも楽しめちゃうタイプの人間だし。
でも、ここで言ってるのはそういうポジティブシンキングみたいなことじゃないの。
もっと強い、強い、強い思いのこと。寝食忘れるくらいの、我をも忘れるくらいの。
私はかつて何度かそういう思いの中にいた。

本当に好き!大好き!と、全身全霊でそこに身を投じていると、神さまもびっくりして慌てて助けてくれるのです。ものすごい勢いで物事が思った通りに回りだす。
そんな「奇跡」を何度も見てきました。(私自身だけでなく、周りの人の「奇跡」も)
無我夢中で一生懸命な時は、普通だったらありえない偶然やサプライズが訪れる。
驚くことに、「それが来る」ことが事前にわかっているくらいの確実さで訪れるのです。
あれは神さまが手を貸してくれていたとしか思えない。
今振り返ると、その情熱は「本物」だったんだなぁと。神さまの介助があるのは「本物」の証。
本物の情熱を持ったことがあると、その後、いろんなことに夢中になっても、なまなかなことでは自分を納得させられなくなってくる。
どんどんハードルが上がる、というか。ああ、この程度ではまだまだ、みたいな。
しまいには、もはやあのような奇跡は二度と起こらないんだろうな、という気がしてしまう。
でも、たぶんそれは違う。思い過ごしだ。
人間そう単純なものではないのです。
またいつか、純粋に全身全霊で身を投じるほど大好きで、夢中になれることに出会える日がきっと来る。きっと来る!と、信じる!
そういうのって、びっくりするくらい予想外のところから降ってわいてくるものなんだから。
信じてゆくことが大事なんだと思う。
信じることを、生きてゆく上での楽しみとしていこう。