ブログを想う

先日(ってももうかなり前だけど)、NHKでやってた「平成ネット史」って番組をボクちゃんと見て、自らのネット人生を感慨深く振り返りました。
元祖ネット依存症のようだったかつての私。
「ママはモザイクの頃からネットやってたんだよ」とか「VCDの静止画像を取るのにコマンド駆使して3人がかりでやっとその方法を見つけた」とか「中華明星迷ヲタのカリスマサイトやってた」とか。
盛り気味の自慢話を息子相手に延々と年寄りの繰り言のように語りながら見ていました。
その番組の中である人が、「ブログってのが出始めたとき、ホームページをやってた人間はそこに乗っかるのはイージーで嫌だという意識があった」(言葉は違うけど大筋はこんなニュアンス)的なコメントをしていたのです。
「これだよ!まさに!私もまったく同じだったなぁ」と一人で盛り上がっちゃいました。

ホームページの管理人をやってた頃、ブログが流行りだして猫も杓子もそっちに流れてゆくのを尻目に、「私はあんなお仕着せのツールになんか乗っからないぞ」って思って内心抵抗してたんですよね。
結局、時流に流されてブログ始めるんだけど、しばらくはささやかな反抗心を抱きながらホームページと並行してやってました。
それがいつの間にかブログに慣れ、ホームページを閉じてブログ一本にしちゃうほどブログ大好き人間になっちゃうんだから、人間なんて移り気なもんです。
でも、私はそれ以降の、ミクシィフェイスブック、インスタ、ツイッター…のいずれにも魅力を感じることができずに、「やっぱりブログが好き」ってところに戻ってきます。

ブログというのは読んで欲しい「誰か」に向けて出す手紙のようなものです。
ラカンが言うところの「手紙は必ず届く」というのはまさにブログに当てはめて考えるとしっくりくる。
ブログ(手紙)を書いている段階で自分の想定する「誰か」にすでにそれは届いているのです。
「誰か」は「他者」であるかのようだけれども実は「自分自身」なのかもしれません。「他者」とは常に「自分自身」を通した向こう側にしかいないのだから。
要するにこれはメタ認知的な機能を内包しているツールだということです。

他者からイイねと言ってもらうためにブログを書いてる人もいるかもしれないけれど、そういう人はもっと手っ取り早く「イイね」がもらえるツールに移ってゆくでしょう。
ブログは回りくどい。
回りくどいことをわざわざやろうとする行為には「イイね」を得たいという欲望とは別の目的があるように感じます。
「イイね」という軽い、むしろ無理解な、素気のないレスポンスではない、自分が本当に届けたい「誰か」からの「それは確かに届いているよ」という無言のレスポンス(手紙は常に届いているという確信)を常に期待しているのです。
それは明確に相手のある話であり、その宛先があるからブログは成り立つような気がします。
宛先が「私の中のもう一人の私」であるにすぎないとしても。


今日のランチは「栃木の海」といわれている「黒潮鮨」にて。
お刺身の盛り合わせ定食が豪華です!


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