彼女のこと

ふと気づくと安楽死で亡くなった友人のことばかり考えてる。
彼女の最後に深く関わった宮下洋一さんのルポルタージュを読みました。

安楽死を遂げた日本人

安楽死を遂げた日本人

 

 
安楽死をテーマにしているとはいっても、その是非を世に問いかけるものではなくて、この(日本では)非合法の死に方を巡って当事者や周りの人たちがどのようにとらえているのかを個々のケースごとに丁寧にすくいあげている真摯なルポでした。


著者の宮下さんが、独善的な思い込みを持たず、思想の偏りもなく、あえて結論を出そうともせず、できるかぎりフラットな第三者的目線を保ちながら、人としてとても優しく彼女の最後に寄り添っていたことがわかって、なんだかとても嬉しかった。

 

私は個人的な思いが強すぎるので、この本が世に問いたいことを冷静に読み取れていないのかもしれないけども…宮下さんが彼女に優しかったこと、彼女自身をきちんと理解しようとしてくれたこと、そして彼女の行動を、彼女自身のパーソナルな問題であるとして世間一般へと落とし込まなかったことにとても好感を持ちました。
いい人に巡り合えたんだね、良かった。と、心から思えた。
これも神の采配か。
二人の邂逅にはなにか人事を超えた「導きの手」が存在していた気がします。

 

安楽死の是非や、彼女の行動に対する賛否などいろんな意見はあるでしょうが、ほんとうにこういうものは一人一人の問題だとしか言えない気がします。
今もし「安楽死の制度を日本でも認めた方がいいと思うか?」と聞かれたら、私は「そう思わない」と答えます。
これはこのルポを読んで判断した考えです。
読む前はそう思っていませんでした。
自分の死を自分でコントロールするくらいさせてくれたっていいじゃない?なんでダメなの?くらいの気持ちでした。
でも、感覚的な、「死にたい人の気持ち」だけで、安楽死を決めることの危険性はやはりあると、レポを通して気づかされた。
死や生はコントロールすべきものではない、ということに。(生のコントロールといえば今、問題になっている優性保護の話にもつながります。この方向だと何がいけないかわかりやすいですよね)

それでも、”この地上のどこかに安楽死できる場所がある”という今の状態は、そのハードルの高さも含めて、アリだと思うし、「どうしても」と願う人にとっての希望だとも感じます。

私は日本での安楽死制度には反対ですが、彼女がとった行動を責める気にはなれません。まるっと彼女らしい、まったく齟齬のないあり方だったから。
ああ、彼女だったらそうするだろうな、と、しみじみと、センチメンタルな気持ちとともにそう思うのです。良くも悪くも彼女は彼女自身を全うしたんだな、と。


私たちの出会いは25歳の時。勤めていた広告代理店に彼女が入ってきたことで知り合いました。
同じ歳の私たちはすぐに仲良くなって、毎日飽きずに将来の夢の話ばかりしてました。
職場には他にも、女優を目指している子、漫画家の卵、デザイナーの勉強をしている子、文学マニアなど一癖も二癖もある同年代の女の子たちが集まっていて、仕事終わりにはカフェに寄ってはワイワイと自分の好きなことを語りました。将来の夢、憧れの人、映画や小説…時には「芸術とは何か」みたいな答えのない議論を延々としたり。奇妙で楽しい毎日でした。

バブル時代の東京。まだレインボーブリッジも出来上がっていなかった頃のことです。

彼女はそこにいるだけで場が華やぐような、明るい子でね。
美人で、スタイルがよくて、気風がよくて、話し上手で、頭脳明晰。
いつも素晴らしい笑顔とユーモアに溢れていて、皆が楽しくなるような雰囲気を作る名人だったけど、言いたいことをガツンと言っちゃうバカ正直さもありました。
当時流行ってた「おやじギャル」っぽいところがあって、お酒もギャンブルもイケるくちで。時々羽目を外してオッサンみたいな下ネタ連発したりするのが私はイヤでね。
下ネタ聞くたびにキレてカッカする私を彼女はいつも面白そうに笑ってた。
一見、イケイケなのに、お料理上手で、手芸が好きで、子どもが好きで…という家庭的なところもありました。
家に遊びに行くと、さっとありあわせで美味しいものを作ってくれるし、前もって遊びに行くのがわかっていると前日から煮込みなんかを作って待っていてくれた。
そのどれもが美味しかった。
作り方を教わったチリソースで作るミネストローネは絶品でした。

美人で気が利くからすごくモテる子だったし、周りから「いい奥さんになるよ」ってよく言われてたけど、本人は「私はずっと結婚できないような気がするんだよ。子どももすごく好きだけど、きっと縁がないと思う」「今から孤独死の心配をしてる」なんていつも言ってた。
彼女曰く「私にはなんとなくその人の未来の姿が見えるんだよ」と。確信めいた雰囲気で友人たちの未来予想をしたりもしてました。パッ、と未来の風景が一枚の写真のように見えるらしい。
私ももちろん聞いてみましたよ。「私の将来、どんなふうに見える?」って。
答えは今でも忘れられません。
私がずっと小説家になりたいといってるのを知りながら、彼女はこう言ったのです。
「私にはyonaちゃんが小説家になってる姿はどうしても見えないんだよね…でも、子どもたちに囲まれてすごく幸せそうに笑ってる。家庭運がいいよ、あんたは。」

当時の私はすでに結婚してたけど、子どもはいなかったし、その時はまだ全然欲しくなかったんです。(”その時はまだ”どころではなくて「子どもはいらない」と公言していました)当然そのことは彼女も知ってました。
それよりも仕事(コピーライターでした)を発展させて、いずれ小説を書くのだと息巻いてた。
要するに彼女はその時の私の欲しいものと欲しくないものをまるで無視した未来予想図を言ったのです。忖度無しで(!)。
当然、「そんなの当たるわけないし!」って、その時の私は猛反発したけど…数年後、私はいきなり子どもが欲しくなり、母になりました。
当時の自分には思いもよらない気持ちの変化を経て、私は自分の天職はお母さんになることだったのか!なんて勢いで、子どもはもちろん母である自分が大好きな、家庭にどっぷりの主婦となり…今に至ります。もちろん小説家にはなれてない。
やっぱり彼女の予知能力は半端なかった、と今では思います。
彼女自身への未来予想図もかなり当たってました。一生独身で子どもももたず…って。さすがに難しい病気に罹患したり安楽死で世間の耳目を集めるなんて想像もできなかったろうけど…でも、どこかおぼろげながらそんなことも見えていたような気もするのです。ちょっと怖い予感を口にしたこともあったから。
彼女の予知能力の高さを示すエピソードはいろいろあるんですよ。今となっては誰にも言うつもりはないですけどね。
人のことを洞察する能力はべら棒だったけど、それだけでなくて霊感(第6感?)のようなものも強かったのだと思います。

 

その後、私たちは(私が地方都市に引っ越したことで)離れてしまいました。

田舎で出産し母となった私と、東京のど真ん中でキャリアを重ね、韓国と日本を繋ぐ仕事で忙しく飛び回るようになった彼女。

それでもしばらくは文通を続けていて「いつか往復書簡集を出そうね!」なんて盛り上がってたんだけど、やがてそれも途絶えがちになり、年賀状だけになり、それもなくなったのは娘が5歳になる頃でした。
風の噂で、夢を叶えて忙しく飛び回ってる、と聞き、陰ながら応援していました。
以降、私は彼女を「いつかきっとまた会う人」のリストに入れて、つい先日まで忘れていたのです。

 

ああ、だめだな。思い出話が止まらない。
次々に話をしてしまいそう。もうこの辺でやめておきます。
よく考えたら、今はもういない人のプライバシーだもんね(汗)。
でも、当たり障りのない部分で、私の中のいい思い出だけでも書いておきたかったのです。
ごめんね、許してね。

私の大好きだった小島ミナは、こういう子でした。
私はずっと彼女のことを「コジ」と呼んでた。
コジ、あなたはもうこの世界にいないのね。
空を見るたびあなたを思います。
ああ、もうコジはいないのか…って、ただそう思うの。
いないんだなぁ…って。
ポカーンと、そう思う。
あなたと過ごしたわずかな期間は、私の青春でした。

すごく楽しい、素敵な時間だったよ。