それは人生の軌跡

ブログ書くの久しぶりだ。やっぱりここに何か書くのは気が楽だね。
ツイッターに何か書く時って、べつに大したこと書くわけでもないんだけど妙に緊張するんだよ。
緊張してまでつぶやくのは、とりあえず何もつぶやかないとそもそもツイッターにいる意味がないかな、と思うからなんだけど、つぶやいたところで意味のあることやってるわけじゃないし、正直、どんどん孤独になってゆく。
「ああ、私はなんでこんなとこにいるんだろうな」と、つぶやくたびに感じる。
ちょっと見ないでいると、もはや誰の話にもついていけない。置いてけぼりになる。
ツイッターという「社会」の枠組みの中で積極的に発言する人たちは、仲間がたくさんいて、みんなに認められていて、堂々としてて、主張することを恐れず、生き生きと自己表現してて、リアルも充実してて、みんな生き生きと世の中と対峙しているように見える。誰もが自分より立派で偉そうに思えてくる。
そんなに一日中ツイートしてるのおかしくない??依存症かよ、って思ったりもするけれど、たぶんそれは私のやっかみだろうね。

たくさんの声が溢れる往来で、取り残された自分がポツンと立っている。
誰にとっても、私自身にとっても、私なんかどうでもいい存在のような気がしてくる。
自分の存在があまりにも取るに足らなくて心が折れそうになる。
そんなのはありきたりのSNS錯覚病だとわかっていても、そんなイージーなところでひっかかってしまう私は、要するにツイッター界隈では完全に落ちこぼれなのです。


以下、先日のツイッターでの私のつぶやき。


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6月2日

ツイートで、安楽死を選んだ女性の話がNHKで放送されたのを知った。
その女性の名前を見て衝撃で身体が震えた。
同姓同名?と思って慌てて調べた。
経歴で本人だとわかった。
かつての親友。大好きだった友人。職場の同僚だった。
私が東京を離れてからしだいに遠ざかり音信不通になって数十年経つ。


彼女と過ごした日々。私の中では永遠に消えない。毎日将来の夢ばかり話してた。私たちは夢見る夢子さんだった。
離れ離れになった後も文通をしていた。地方都市で出産し主婦になった私と、どんどん仕事の幅を広げて韓国と日本を駆け回る彼女。彼女の夢はどんどん現実になった。


音信不通になる前に、彼女は家に来てくれた。娘が1歳の頃。夕食にバジルのパスタを作ったのを覚えてる。あれが彼女に会った最後の日だった。あの時撮った写真が最後の姿として私のアルバムの中にある。


彼女がもういないという実感は正直無い。私にとって彼女は長く不在のままだから。不在であるだけで、私が夢を叶えて作家になったらサイン会には必ず来てくれるはずの人だった。ただ私がいつまでもモノにならないので彼女は私にとって不在のまま彼女は彼女の夢を叶えて仕事に駆け回っているはずだった。


NHKスペシャルを見るべきなのか迷う。見なければずっと彼女は私の中で不在のままでいるのかもしれない。見てしまったら永遠に失われてもう取り返しがつかない気がする。でも彼女が残した人生の記録を見なくていいのか?見る勇気はあるのか?見なければいけない?どうすればいいのだろう?


彼女のブログがある、とツイで教わった。彼女は文章を書くのが上手くて、いつも引き込まれた。ブログはまさしく彼女の書く文章だった。綴られているのは病気になってからの日々。
まるで彼女が話してるかのような文章。私の知ってる彼女の私の知らない日々の記録。全部読もう。それから考えよう。


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このツイートをしたとき、私にはツイッターが決定的に向いてないと感じた。
なんだこれ???
何かもう…

なんでこんな重要なことを箇条書きのようなやり方でしか語れないのかと…
この時、自分で自分がすごく情けなく思えたのです。
嫌悪感でいっぱいになった。
でも、この時はめちゃくちゃ動揺してたし、誰かに聞いてほしくてたまらなくて…震える指先で必死にすがったのはツイッターだった。誰も読まない自分のブログではなくて、誰かが読んでくれるツイッターだったのです。誰でもいいから誰かの反応が欲しかったの。一人ではないと実感したかった。
だから実体のない世間に向かって闇雲にツイートした。そうせずにはいられなかった。
でも、残ったのは自己嫌悪と失望だった。
私にとってこのことはこんな形でタイムラインの彼方に即座に流されていいものではなかった。
そして、私から文章で表現することをとったらまるで何も残らないんだ、ということも身に染みた。
彼女が教えてくれた。
…と、今では思ってる。

 

その後、この友人の遺したブログを全部読みました。
こちらのブログ↓  

ameblo.jp

 

彼女が多くの人に読んでもらうことを願って書いた渾身の記録です。
お時間のある方はちょっと訪ねてみてください。

 


私はまだ彼女の死の瞬間が記録されたNHKスペシャルを見ていません。
見られる状況にあるけど、見てない。
まずは彼女の遺した言葉を先に知りたかった。
ブログを、全部、ちゃんと読んでからでないとTVは見られない、と判断した。
でも、ブログを全部読んだら、もうTVは見なくてもいいかな、と感じた。
逆に、今ならTVを見てもきっと大丈夫だという気もしてる。
要するに、TVを見ること自体はたいして重要ではなくなりました。
誰かが撮影したTVより、彼女の言葉を読んだ方が絶対に真実に近いと確信したから。
それだけ、”知るべきことはもう伝わった”感がある。
厳しい現実の中で必死で生きていた彼女の想いは、等身大の口調そのままに、精一杯生きた証として、ブログに遺されていました。
昔から文章を書くことが得意だった彼女らしく、最後まで精彩のある聡明な文章表現で自分の状況を伝えてた。
さすがだよ。凄い。実に見事でした!


と同時に、「ああ、やっぱりブログっていいな」と心から思ったのです。
こんなにも気持ちが伝わる。
ツイッターのように拡散もしないし、下手したら誰も読んでくれないし、興味のない人には長ったらしくて飽きさせちゃうだろうし、ホントに孤独なつぶやきで終わるかもしれないけど、でもやっぱりブログはいい。ちゃんと伝えられる気がする。
ツイッターはフォローされることが前提だし、何よりも文字数が制限されている。私はどうしても発言することに身構えちゃう。
でも、こんなろくに誰も読まないようなブログだったら自由に何でも言える。そもそもレスポンスの期待していないし(あればそりゃすっごく嬉しいけど!)、もし私の言動が嫌であれば、ここには来なくていいんだよ、とも言える。
だってここは私の庭だもの。
私が私をちゃんと見つめることができて、その記録が残せる豊かな庭。
放置せずにちゃんと手入れしていかないと…と反省しきりです。

とはいえ、ツイッターはやめないです。
落ちこぼれだけど、だからこそやめない。見限って自分の庭に引きこもってしまうのはなんだか違うと思う。
私は懲りずにまたあの喧しい往来にポツンと立って、街の声を聞いてはそこに加わろうとするでしょう。知らないことだらけのあの場所は、しんどいけれど楽しくもあるから。

でも、ここに帰る。ここは家。あちらは往来。そんな感じか。

久しぶりに書いたら支離滅裂(汗)。