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ブログの連続更新を終えて

diary


終えて……っても、まだ終わってないんですけどね(^^;、
明後日で一応公約(?)通りの、年内までのブログ連続更新が終わりますので前倒しで感想などを。
軽いノリで始めた連続更新ですが、すぐに「毎日ブログを書くことはかなりキツイ!」ということがわかりました。
最初の頃は律儀に記事ナンバーまでふってましたが、そんなことするのさえすぐキツくなりました。
グウタラな私にのしかかる重いプレッシャー(汗)。
モノを書くことは苦痛じゃないんだけど、「毎日続ける」ってのがとにかくキツイ。
「うわ!もう、今日が終わっちゃう!ヤバイバイ!」と、毎日毎日焦りました。(どんだけ…。締め切り前にならないと動き出せない性格はずっと変わらずです)
でも、強制的になんか書かなきゃならない中で、新しい感覚との出会いのようなものもありました。
苦し紛れに載せた料理ネタなどで、ちょっとしたモチベーションが生まれたりとかね。
このブログはもともと萌え話を載せるためにはじめたので、自分の生活のことなどを書くのはホントは筋違いだという意識がどうしてもあります。
みっともないことを書いてる、という感覚ね。
日々食べたモノや出かけた場所を見せてゆくブログって、「ステキでしょ」「イイでしょ」みたいな意識がどこか透けて見えるようで、なんだかなぁ…って気がしてて。
「見て見て!」が自分の好きなタレントやミュージシャンや好きな曲や映画だったら、そりゃもうブログに書く意味も、書かなければならない自分の意識も十分に感じるのだけれど、「見て見て!」の対象が自分の身の回りのこととなると途端に居心地が悪くなるというか。馬鹿な妄想話をするよりも、恥ずかしかったりするのです。
でもまぁ、料理や手芸は「創作」なので、これらに関しては「見て見て!」も有りだな、と、書いていくうちに思いました。創作はね、自慢してナンボですからね。
まぁ、考えすぎなんですけどね。
こんな僻地ブログ、誰も気にしちゃいないのに自意識過剰。
こまっかいことは気にせずに、常識の範囲内で自分の好きにやればいいんだよ。そこがSNSとは違うところだし、私がSNSではなくブログをやってる理由なんだし。
これからも、あんまり自分の書く事柄に制限を加えずに行こうと思います。
自由に、気ままに。でも、コンスタントに長く続けていこうと、想いを新たにしました。


毎日の更新の中で、幾度となく「何のために私はこんなことしてるんだろう?」という自問が生じました。シンドイとすぐそういうこと考えるんですよね私は。
でもその都度こう思うのです。「何のため」なんてない。「何のため」なんて思い始めた時点でオマエは負けてるぞ!と。
こんなの、「やりたいからやってる」以外の何物でもないんですよ。やりたくなくなったらやめるのです。
その自覚をずっともつことはすごく大事。
自分のやってることを、「何かのため」だと思えば、その結果(というか見返り)を待つようになる。
やがてそれらが伴わないと「こんなことしてなんになるんだろう?」となる。
そんな疑問は「何のために生きてるんだろう」みたいなしょーもない戯れ言です。無能な人間の言いそうな事です。
書くのがしんどくても、ネタがなくてうんうん悩んでも、それでも書きたいから書いている。
そのことを自覚することが一番大事なんだということを、私は無理やり更新する日々の中で自覚しました。
小さなことでもいい。「やりたいからやっている」という自覚を持つことは、自分を形作るのに大事な気持ちだと思います。それが自分のための人生を生きる、はじめの第一歩です。


新年からはブログの連続更新という縛りがなくなりますが、「なるべく更新する」方向ではありたいと思っています。
振り返った時、自分の想いの記録がたっぷり残ってるってのは凄いことです。
いずれ私は私のブログの一番の愛読者になる。
日々の積み重ねがすなわち人生。なのです。
書いてくそばから流れて消えてゆくSNSでは、この感覚は味わえないでしょう。
なんだかんだ私はこのブログが好きだから、続けているのです。
それならば(毎日といわずとも)ちゃんと更新して、大切にしたいという思いは以前にも増して強くなりました。更新されないブログほど、寂しいものはないですからね。


深夜、独りきりで向かうPCの画面のその先には広大な世界が広がっている。
レスポンスの無い独り言を語り続けても、どこか遠い場所で、誰かが確実に私の言葉をキャッチしている(かもしれない)という想像は、私にとっての「癒し」です。
その孤独と希望は、10代の頃に憧れた「アメリカングラフィティ」の中のウルフマン・ジャックのようで、たまらなく魅力的なのです。