リアルとは何だ


今日発売の「音楽と人」(エレカシが表紙&巻頭特集です)を読んでたら、昨日私が好きだと書いた「俺の道」ってアルバムを、ミヤジが(作品自体はいいアルバムだとしながらも)「言葉が上滑りしてる」「這いつくばって〜とか歌ってるのに、ホントはぬくぬくしたところで生きてた(だからあれはリアルじゃない)」みたいなこと言ってセルフ駄目出ししてましたw


ミヤジは己の魂の叫びがホンモノか作ったものかとかいうレベルでこだわりがあるかもしれないけど、聴いてるこっちはそんなもん知ったこっちゃない。
そもそも人間、ホントにツラいところに陥ってダメになっちゃってる状態では、何一つ生み出せないもんですよ。生きるか死ぬかのシンドイ時に創作なんかできない。
問題はその曲が、こっちの魂に響くか響かないかであって、それは作る本人の境遇には関係なく、作られた世界の完成度(完成度……って言い方はちょっと違うな。こっちにどう届くか、っていうことね)のみに依るんです。
だからもう、こっちが「届いた!」と思えば、それはもうそれでいいんですよ。届けた方の鑑定書はあってもなくてもどっちでもいい。もしかして鑑定書だけ頼りにしてる人がいたらアレだけどw
ミヤジ個人のファンであれば、どんな状況下でその曲が作られたのか、どういう経緯でその曲が生まれたかを知るのは興味があることだし、知りたいと思うけど、一般的にはね、どうでもいいんですそういうことは。むしろ邪魔でしょう。
「俺の道」はいいアルバムですよ(もちろんそれは本人もそう言ってるけど)。
あの曲たちを、リアルでホントにどん底の境遇で聴いて救われた人だっているかもしれない。それはまぎれもない「真実」ですよ。聴く側のリアルがそれを受け入れるのであれば、それはどのような出自のものであれ「真実」なのです。
それを「あれは違う」って言うのはさw
まぁ、ミヤジらしいですね。
あえてそういうドッチラケなこと言うのがミヤジのピュアで真摯でとてつもなく信用できるところだってのはわかっています。ちょっとのウソもつきたくないんだよね、きっと。でもそりゃしょうがない。人間トシ食ってくうちに見えてくるものがあるのだから。
今回のアルバムだって今でこそ「これが今のリアル」だと言ってるけど、数年経って次のアルバムができたら「あん時はまだ甘かったねぇ〜」レベルの話になるかもしれないし。でも、それでこそエレカシでしょう。
こうしてどんどん過去を更新していく気持ちでやっていくことこそが大事よ。それが走り続けている証、だもの。


私は以前も書いたけど、エレカシのガッツリとアグレッシブなのにどこか長閑(のどか)なところが好きなんです。
エレカシが長閑??真逆でしょ?って思う人は多いだろうけど、ミヤジがどこか大きく守られた場所で「ごく個人的な概念に縛られたレベルで自由に」苦悩に喘ぎ叫んでいる……という構図がエレカシの曲には滲み出てて、私にはそれがなんというか、ある種の精神的高等遊民みたいな…要するに長閑なものに感じるのです。それを私は「純粋培養」だとも思っています。
でもそれが「リアル」じゃないかって言えば、そんなことはない。それはそれで紛いもなく「リアル」なんですよ。真実と現実は似てるようだけど違う。
死んだことない作家が死をリアルに書けることだってある。それはそのことを深く深く考えるある種の「余裕」があるからでしょう。想像力。才能。総じて芸術家とは、この「深く深く考える」ことによってのみ、世界を構築できるのだと思います。本当に死んでみる、ってのがリアルなんではなく。
要するに、本当の泥にまみれていないからこそ受け入れられるものというのがあるのです。泥にまみれてしまったらもうそれはそこに存在し得なくなるくらいのものとして。
ミヤジの作る曲が、そこはかとなく品が良く、哲学的であり、常に希望的であり、ひねくれてなく、要するにとてもピュアなのは、純粋培養ゆえなんだと私は思っているのです。
それと性格かな。あのとんでもなくストイックな性格!
境遇と性格と能力がスリーセブンみたく揃っちゃってるところから、あの名曲たちはうまれてくるのかもなぁ。
(No.15)