「夢見るフランス絵画 印象派からエコール・ド・パリへ」

ほぼ一週間前に書いたネタをUPする、っていう(汗)。
ここんとこバタバタとしてて(というのは、実に要領悪く過ごしてただけの言い訳であり、なにがあったわけでもないのですが)気がついたら一週間経ってました。
ホントにイイトシしてこういうボンヤリしてるのってもはや罪悪に近いような気がします。日々一生懸命、感謝して丁寧に過ごしている人はこんな風にはならない。
思ったり書いたりひそかに心に誓ったりしてることとは真逆のグータラな生き方をしているという典型的なダメ人間です。イヤダな。どうにかならんもんかオノレはよ。


というわけで、見苦しい言い訳の後で表題(^^;
宇都宮美術館で開催中の企画展に行ってきました。



「夢見る」ってのがいいですね。
これは永井荷風の「ふらんす物語」をなぞらえてコンセプトを作ったゆえのネーミングということです。
まず最初にそういう導入があると、こちらはもうガチッと荷風のモード(西洋に憧れる旅人=夢見るエトランジェ)になるので、心の置き所が明確になり、展覧会全体を見渡しやすいというのを感じました。
悪く言えば、主体性もなくお仕着せの鑑賞方法に導かれてるだけなんですけど、こういったいろんな作家の作品が集まった展覧会ってのは、実はノープランで挑むとものすごく散漫になってしまい、ヘトヘトに疲れるものなんですよね。なので、鑑賞者の「軸」を強制的に(?)作ってしまうというのはとてもありがたいのです。


作品はモネ、ルノワール、キスリング、ルオー、セザンヌシャガール…とにかく盛りだくさんです。
シスレーの水面や、ヴラマンクの雪道、デュフィの装飾品、ルノワールの女性……皆生き生きと時を超えて息づいていました。
私が一番惹かれたのは、モネの「エトルタ、夕日のアヴァル断崖」という作品です。



刻々と沈みゆく夕陽の海をとらえた風景ですが、この刹那の描写に永遠がある。
この作品に打たれて動けなくなってしまった。
すごく単純でバカなことを言ってみますが、「光が届く」感覚というかな……
例えば星の光って、何億年も前に光源から発せられたものを現在の私たちが見ているでしょう?それと同じような、時差のある「光」が届く感覚。
それはこの絵に限らず、この展覧会の作品すべてに関してあてはまる感覚ですが、ここにある絵を描いた人はすべてとうの昔に亡くなっているけれど、彼らが生きて、生活し、様々な思いを抱えながら見た「光」は、絵の中に刻まれて、たった今、私に届いた……というね。
時空の中に存在していたものが、「私」という生命体に届いた瞬間、解凍されて息を吹き返した、というような。ああ、ずっとずっと生きているのだこの「光」は、という。
それを思った瞬間、ブワッと涙が溢れました。
ヒトは必ず死ぬ。
もはやこれらの絵を描いた人間は誰一人ここに存在してはいない。でも、様々な形で「思い」(それは感動でも怒りでもその時に見た光そのものでも)を残すことはできる。そしてそれらは別の時代の何の関係ない人の元にも届き、受けとられ、生き続けてゆくのだ、と。
すごいことではないですか!
これはほぼ「永遠の命」を得ることにも等しい。
自分の「思い」を一番伝えたい形で残すこと、自分の「作品」をこの世界に遺してゆくことはおそらく究極の欲望なんではないだろうか。
美味いもんが食いたいとか、オシャレしたいとか、愛し合いたいとか、あっち行きたい、あれが買いたい、これが見たい…っていう全ての欲望を超える、心に灯をともす欲望。切実なる、抜きさしならぬ、これが得られなければ死ぬことまかりならぬ、というほどの欲望なのではないか?…と思ったわけです。
ああ、私が欲しいものはこれなのだ、と。
ずっとこれが欲しくて悪あがきをしているのだとあらためて突き付けられたように感じました。
もっと欲望に忠実にならなくてはダメだ、そうでないと後悔してしまう…と、画家たちの残した膨大な「光」を受け取りながら、思ったのでした。


美術館の周りは少しだけ秋の気配。
まだ緑が輝いていました。



お嬢。カントリー娘風w



森に入ると木々の下にはドングリがたくさん落ちてました。
ずっとびっしりと地面を埋め尽くすドングリに「実りの秋」という言葉が浮かびました。ここいらあたりの鳥たちは、滋養豊かな木の実が食べ放題だね。