緑の灯火

 

そは我の緑の灯火春朧



季語は春朧(はるおぼろ)。ぼんやりとにじんだような春の宵。
ここでは自然描写に合わせてそのような心持ち…形のはっきりしないトキメキや高揚感がじんわりとこもった感じ、を表わしたくて選びました。
「緑の灯火(=緑のともしび)」というのは、フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」に出てくる、「手の届かない、けれどいつか絶対に手に入れると心に誓いずっと手を伸ばし続けている憧れ」を表わす象徴的なアイテムから引用しました。
まぁ、そういった知らなきゃわからない意味が伝わらなくても、「緑の灯火」という言葉からイメージ的に何か希求している感じが伝わればいいかな、と。


現に私自身、一時期、宵闇の中を歩く道すがらに灯っている緑色の常夜灯(まさに「緑のともしび」ね)を見るたびに、香港の夜景を思い出してトキメいていたことがありました。恋の高揚にも似た感覚で。
道端の灯りは、私の中ではただの常夜灯ではなく、憧れや夢を胸に思い起こさせる偉大なる装置であり、ある意味、かけがえのない「宝物」でした。
憧れ続けて、行きたくてたまらないのに行けなかった聖地の光であったのです。


グレート・ギャツビー」にも描かれている通り、大切なのはその灯りを手に入れることではなく、そういった灯りが人生に存在することそのものなのだ…ということは、今の私にはわかっています。
わかってしまった私は、一つ何かを失いました。
「知る」ことは、得ることでもあり、失うことでもあります。
それでもいまだに私には心に「緑のともしび」が灯っています。
でも、昔のようにそれを純粋に一途に信じて希求しているかというと、そうではなくて…どこか諦めのような境地で夢を見てるといった感じなのです。
まさにぼんやりとした、朧夜のようなイメージの中で。


グレート・ギャツビー」は、私にとって教科書のような小説です。
未来への夢とか憧れとか一途さ…幻のようにも思えるそういったものが人を支え、本質を作ってゆくのだということを、とても印象的に伝えてくれる物語です。
そして、そういった個人の情熱や思惑は巨大な資本主義のうねりの中では何の痕跡も刻めない、という部分も含めて、フィッツジェラルドの醒めた目線が強烈に生きています。
単なる恋物語ではない、深い内容がそこにはある。
構造的にもすごく上手くて、語り手の「僕」の目線に乗って幻のようなギャツビーの人生を辿って行くうちに……いつのまにか「僕」の内面に戻ってきているという不思議な感覚を味わえます。
この物語の主人公は実は「僕」です。読者がギャツビーを慕う「僕」に同化した時、ギャツビーの真実は生きてくる。
「僕」がいなければ、ギャツビーは存在しないのです。グッときちゃうね。


そういえば映画のギャツビーは私、レッドフォードのしか観たことないんですよね。
あれはレッドフォードが恋焦がれる女がミア・ファローってとこがちょっとガッカリでした…まぁ、ジャズエイジの雰囲気、なくもないかもしれんけど。
ディカプリオの方、観てみたいなぁ。
ニックの役がトビー・マグワイヤってのもイイね!(レッドフォード版のニック役、誰だったか全然覚えていないので調べたらサム・ウォーターストンって人だった…調べても思い出せなかった(^^;)
デイカプと言えば先日、「ウルフ・オブ・ウォールストリート」(奇しくもギャツビーと同じ証券転がし屋だったジョーダン・ベルフォートの回想記)を見たけど、あれは酷かった。
激しすぎて生理的にムリ、ってやつね。めっちゃ賞獲った映画だけど…ひたすら下品だよね。
ウォールストリートの株屋ってあんなんばっかりか??みたいな偏見、もたれんちゃうん?
でもまぁ、人生とは何だ?という基本的なことを考えさせられる映画ではありました。
成りあがりという意味ではディカプはハマると思う。ディカプ版ギャツビー、今度観てみよう。


グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)