その男の自由に憧れて(『欲望の翼』に寄す)

昨日は私の永遠のアイドル、偉仔の誕生日でした。
時に、しばしばここのブログ内検索で「梁朝偉」または「トニー・レオン」を検索する方がいらっしゃいますが、それらの名称ではろくに出てこないかと思います。もしお探しのようであれば「偉仔」で検索してみてください。ここではそう表記してることがほとんどです。検索避けってわけでもなくて、単にいつもそう呼んでいるからです。「偉仔(わいちゃい)」って呼び方でないと、私の中で別ものになってしまうのでw
ろくなことは書いてませんが、以前から気になっていたので…とりあえず(汗)


閑話休題


偉仔、52歳だってよ!
ああもうそんな年齢なんですねぇ。しっかりオジサンだわ…
私もオバサンだからなんともいえないけど(汗)、偉仔はいつだって私より年上で、いつまでもお兄さんなのがなにげに嬉しいんですよね。
そりゃあたりまえのことなんだけどさ、なにかすごく安心する。


どうせだから偉仔の出演作の中で一番好きな映画のことを書こう、と思ったんだけど、一番を選ぼうとするとすごく迷ってしまう。絞れない。
最初に好きになったきっかけは「悲情城市」で、ハマったのは「恋する惑星」。アイドルになったのは「新流星胡蝶剣」、大好きな「阿飛與阿基」、「ハードボイルド」、「チャイゴー」、若くて色っぽい「地下情」、「三個夏天」…色っぽいと言えば「花様年華」なんかはもう右に出るものなしですし、「月夜の願い」「裏街の聖者」みたいな庶民的なのも実にイイ。
いやー、選べませんね (・∀・)!
ステキな偉仔はあらゆるところにいる。
でも、偉仔出演作としてはある意味「話にならない」というレベルで語られがちの、「欲望の翼」が、実は捨てがたい。
その出演時間に比してインパクトのデカさがハンパなかったといった意味で、あの役どころは衝撃的で(前知識がない状態で見たのでかなりのショックだったw)、異質で、私にとっては思い入れのある役どころだったりします。
この偉仔に関して、思うところをちょっと書いてみる。


欲望の翼」(「阿飛正傳」)のラストシーン=唐突な偉仔の出演場面は、意図を含ませた「何か」があるというわけでもなく、単なるカーワイのマヌケの賜物(偉仔シーンは第2部の導入編として作ったのに時間も予算もなくなって続行できなくなり、あのシーンだけがポツンと残っただけ)だというのが真相のようですが……
できた経緯はどうであれ、あのシーンはあの唐突さゆえに作品に強烈な印象を残し、深みと華を添えているのは確かです。
「棚ボタ」「嬉しい誤算」「偶然の賜物」のようなものですが、そういう「運も実力のうち」ってのが王家衛の監督としてのポテンシャルでもある(と私は思っている)ので、流石だ!と脱帽します。
他のまともな(?)映画監督には到底できないやり方で、不動のものを演出している。


欲望の翼」には名シーンがそれこそたくさんあって、言ってみりゃ名シーンしかないくらいの濃い作品なのですが、それゆえに観てて疲れる、というのも正直なところです。
全編にわたって、ずっと張りつめた何か神経症的な焦燥感のようなものが漲っている。
若者たちはみんな哀しいほどに必死に渇望感と闘っていて、観ているこちらもヘトヘトです。
そこにもってきて最後に偉仔が人生の憂いとは別のステージで、実に飄々と、あっけらかんとしたダメ男として、トキメキと期待と喜びを静かに滾らせながらああして佇んでいるのは、それこそ一服の清涼剤のようです。
今までの物語にまったくなんの関わりもないギャンブラーの身支度は、若者たちの憂いをそこらによくある凡百の些事の如く遠景化してしまう。
一瞬にして転換した世界の中で、私たちは戸惑い、「去ってしまった物語」の余韻を慌ててたぐり寄せようとするけれど、それはすでにつかみどころがない。


全ては刹那である。
一夜の夢に賭けるギャンブラーはそんな「この世の節理」を教えるかのように、でもとことん無自覚に現れる。
どういう経緯か、棚ボタなのかわからないけれど、このシーンはカーワイの真骨頂だと思う。
私はカーワイには並々ならぬ親近感を抱いているのですが、このシーンの存在と、「恋する惑星」のフェイの描き方、「花様年華」のアンコールワットのシーンには、身が震えるほどの愛を覚えます。


どっちみちチューブに行けばみられるものなのでこのシーンの動画を貼っておきます(「欲望の翼」を未見の方は観ないほうがいいです。本編の一部なので)。
この偉仔はホントに清々しくもカッコいい。
夜ごと新しいトランプの封を切る人生(ギャンブラーにとってトランプは消耗品。毎回必ず新品のトランプで勝負するんですよ!)。
何度も何度もこのシーンを繰り返し見ては、気持ちの中でこのギャンブラーに成りきっていました。彼に同化することで、私はいろんな場面で励まされてきたのです。
彼を好きな女としてでなく、私自身が彼になりたい、といった意味で、今も昔もずっとその存在は憧れです。
彼のように生きていたい、とどこかでずっと思っているんですよ。
自己存在に悩む若者でなく、愛を求める彷徨い人でもなく、ただ目の前のカードの動きに一喜一憂する地に足のついていない人間……私が憧れを感じるのは、要するにそういった者なんですよね。私自身の病理にもどこか抵触する、微妙な感覚なのですが(汗)。
彼には物語なんかないほうがいいんです。
あのままあの時そこにいる、それだけでいい。
美しく磨き上げられた手で、今夜のことだけ考えている男。
それを演じるのが偉仔で良かった。
他の誰かでは、私の気に入るカッコよさがでてこないような気がします。
この完璧なダンディズムを見よw

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