「禁城の虜」


一昨日の新聞広告で見て即買い、即読了しました。



前半、清朝廃帝宣統帝)であった時代に関しては、新しいネタもあったのかもしれませんが、なんだかとうの昔から知っている話ばかりのように思えました。
溥儀の過ごした時代の紫禁城の様相がすでに揺るぎなく私の想像の裡に構築されているからなんだろうな。
辮髪と纏足と阿片と宦官と……薄暗く頽廃した清朝末期の中国は、おどろおどろしく恐ろしい。
けれど、不思議とどこかとてつもなく美しくも感じます。
まるで現実にはない物語のような、行き着く果てまで行ってしまった人間の姿が垣間見られるからかもしれない。
空虚に弛緩し死を待つだけの巨龍の最期の吐息は、この先もう二度と人類が巡り合えないであろう甘い腐臭を放っています。
100年も前ではない時代に、こんな世界があったことを、いつもしみじみと凄いと思う。


一方、後半の満州国建国前後、康徳帝の時代のエピソードは知らなかったものも多く、面白く読みました。
この時代の日本の対中政策というのは、右から見るのと左から見るのとではまるで様相が異なり、登場する要人たちの素顔も真逆という勢いで違って見えるので、何が真実か、何がウソかと躍起になって探ってもひたすら四方八方を鏡で囲まれたラビリンスに迷い込むだけのような気がします。
いっそあることもないことも、語られているいろいろなことを取捨選択せず広く興味を持って読み聞きしていくのが大事なのかと思うんですよね。


人は、それぞれの時代で、境遇で、流れの中で、変節します。
その変節をも人間の多様性、時代の激変ぶりを知るよすがと考えたら、それはそれでドラマです。
東京裁判の溥儀の証言なども、そういった斟酌を加えたうえで検証することによって、いろいろなものが見えてくるようです。
人間をいくつかのエピソードだけで「そういう人間」と決めつけたくない、ということですかね。
評伝(とか歴史モノ)を読むたびにそういうことを強く感じます。
人間、見えているものが全てじゃない。もっともっと、想像してみたいと。