時は師走


おかしなことだけど、私はついこないだまで、人間、本気で願って頑張ったら得られないものなんてないとどこかで信じていました。
いわゆる「生老病死」に関わること以外で、「可能性」という文脈で言えば、ってことですよ。
大きな会社を起業することも、有名人になることも、億万長者になることも、世界中を旅することも、好きな人を手に入れることも、たくさんのやりたいことを実現してゆくことも…(もしそれを望むのであれば)可能性がゼロなんてことは全くないと。
マジでその気になって、必死で頑張ったら、夢を叶えることはできる。それが人生ってものの面白さのようにも感じてました。
「もしかして」「ひょっとしたら」「万が一でも」「きっといつの日か」。
人間が持ってる一番の財産は、この「可能性」ってやつだ、と確信してた。
それが過大な思い込みによる産物であるとしても、です。
私が何も変化しないのは、変わろうとしていないだけ…要するに「まだ本気だしてないだけ」。
一念発起する勢いで何かを頑張ってやり遂げれば、それはいつかどうにかなるのではないか。きれいな実を結ぶかもしれないじゃないか、と信じていたのです。


ところが最近、この思い込みに自信がもてなくなってきました。
冷静に考えたら、自分には(私なりの夢想であるところの)”いろいろなこと”を叶える時間も気力も体力ももはや「物理的に」持ちえないのだということにイヤでも気づくようになったからです。
いったん可能性を感じられなくなると、そこに裏打ちされていた万能感はことごとく揺らいでくる。
「あれもこれもアタシにはできない」「そんなの絶対にムリ」「ダメに決まってる」といった感覚がひしひしとつのり、自分が今後も得られないであろうことをひとつひとつ指折り数えてため息をつくようになる。
でも完全に諦めているわけではないものだから、悪あがきする。叶わない夢を見る。やがて夢見るだけの為に夢を見るようになる。
最近、その傾向が顕著であり、非常にマズイ!と感じているのです。
永遠のワナビがまた一人こうして生まれる(爆)。


「いつか」など、永遠に来ない。
それを悟る日が、人にはやってくる。
トシをとったというそれだけのことなんでしょうが、なんだかションボリしてしまうね。
若い頃からこうした味気ない傾向にある人(世間ではこういう人たちのことを「現実的」「地に足がついた」と評しますが)もたくさんいるわけで、そういう人たちからしたら私なんていつまでたってもノー天気で馬鹿なんじゃないか?って感じだと思うのですが、私を支えていたのはそのノー天気さだといまさらながら気づくのです。
人間、思い込みひとつで生きる姿勢も変わる。
シアワセに生きられるかどうかはこういった個人の感じ方ひとつです。
そして私はそういった性格だったからこそ、ずっと長いこと、バカみたいにシアワセな人間だったのです。
バカだったけれど、バカだった故に、シアワセだったのかもしれない。


私は人より長く受験生だったこともあって、先のことが何も決まっていない状態にあることに高揚感とかシアワセを感じる、という変わった傾向があります(それは、当時自然に身についた自己防衛術だったのでしょうが、気がついたらそれがデフォルトになってた)。
私は今でも合格しなければならない試験を抱えていて、それがあるからこの先の未来が開けているように感じられるのです。
いつだって私には夢があり、明日があり、目指す先だけ見つめていれば生き生きとした人生を送れると信じている。
これこそが「多くの可能性を残してる(という思い込みからくる)万能感」なのですが、こんなものを50近くになるまでもっていようとするなんてのがそもそもオカシイんじゃなかろうか。チャラすぎるではないか。
でも、それがない人生というモノが、私にはどうもピンとこない。
夢や目標がなくてどうやって生きていったらいいのかがまるでわからないのです。


鈴木オサムの「芸人交換日記」の中の台詞で
「オレは凄いんだぜ。だって夢を諦めることができたんだから。」
ってのがあるんだけど、これ、「夢を目指すことに甘んじて生きてる人間」にとって、まさに胸に突き刺さる言葉です。
夢を諦めない、ってのは実はすごく簡単なことで。
ホントにしんどいのは夢を諦めて、真っ向から人生を受け止める覚悟を持つことなんですよね。
なまなかな人間にはできません。それができたら、かなり大人になれるんじゃないかと思う。
私はまだまだ夢を諦める勇気が出ないの。どうしても。
それが未決の問題を先送りするだけの意気地なさであるとわかっていても、です。


以前、TV番組で見た40過ぎた売れない芸人の話を思い出す。
全く笑えないドサ廻りの芸人の人生は、貧しく、家族もなく、未来も見えず、誰が見ても「あちゃー」って感じなのだけれど、でもどこか彼はそんな現状に甘んじているように見える。
ヤバいなーとは思いつつも、「可能性」にしがみついてまだ夢を見る力があるせいか、不思議とどこか幸せそうでもある。
とりあえず、生活の向上や将来の現実的展望よりも、叶わないかもしれない自分の夢を優先していることに、彼は自分の生きがいを見出している。
なので、たとえば誰かにその「あまりまともでない生活」に対して言い訳をするときに、とても明文化しやすいわけです。
「イイトシして年収100万ってどういうこと?」
「いや、芸人めざして頑張ってるところで…」
「あら。そうなの?夢があるんだー。叶うといいね。頑張ってね」
てな感じで。(頑張ってね、なんていう方はほとんど「あちゃー。どうしょもねぇな」と思っているのだが)
こんなことを繰り返しているうち、ホントはただのその場しのぎで考えナシのグウタラ生活だったとしても、「夢がある」という前提の上でなら、なんだかオッケーのような気がしちゃう。唯一、本人だけが。
私も似たようなタイプなのでよくわかる。
ゆっくりと、「将来の私」が朽ちてゆくこの感じw


当然ながら、夢をみるにも期限がある。
夢想にうっとりするのには、もう私はトウが立ちすぎてる。
いい歳したオバサンが何やってんだ、っていう話になる。
私はかなりのナルシストなんでね、自分がみっともない状態というのは耐え難い。
でもそうなっちゃってるのを認めざるを得ない。
ツライ。
論語も「四十にして惑はず、 五十にして天命を知る」と言ってます。
さすが先人の言うことには説得力がある。
昔よりは寿命も延びたから10年くらい上乗せしたところで、40過ぎて行き先もわからず迷っているのはやはり未熟以外の何ものでもないのよね。
でも私は相変わらず悲しいまでに未熟なのです。


そのどうしょうもなさを、ことさらに毎年年末になるとひしひしと感じます。
今年もまた何もできなかった…という、お決まりのパターン。
今年こそ!と年初には毎年思うのです。でも年末になると必ずお決まりのところに収束してゆく。
ああ、それこそが私なのだ!と気づきつつあるほどに毎度毎度(爆)。みじめだ。


さぁ、今年も12月になってしまいましたよ(汗)。
相変わらずの年末を迎えるのか、それともちょっとは進歩の兆しを感じることができるのか?
もはやかすかな進歩の「兆し」だけでもいいから実感できないことにはマジで自分に呆れそう。
年末スパート、がんばらないと。←こういう感覚がすでにダメ、ってのはわかっているので放っておいてっっ。



年賀状用の写真に使った二荒山神社の御神馬です。
来年は午年。
不本意ながらも年女じゃーー(爆)。
どんどんトシをとっていってしまうーーー(涙)