心ここにあらず。彼方にありて焦燥す


A社とB社の2銘柄の株が気になっているが、どちらか一つしか買える資金がない。
逡巡の末、A社を買ってみたけれど、買ったとたんにA社の株価が下がりだし、気になっていたB社の株価が上がりだした。
「や、間違ったか」と思って慌ててA社を損切りして、B社を買う。
ホッとしたのもつかの間、今度はB社の株価が落ち始め、損切ったA社があれよあれよと上昇するではないか。
「ややや(汗)早まった!」…と思っても、もはや怖くて動くことができない。
動いても再び同じことが繰り返されるような気がする。
動けないままどんどん目減りしてゆく資金。
動くべきか?やめとこうか?動くなら今だ!でも、動いた後、また逆の事が起こったら?
なぜか、凝視するチャートはすでに保有していないA社の株価だ。
失敗のループへの恐怖で金縛りになったまま時間は過ぎる。
心がどこかあさっての方に行ったまま、気持ちの悪い焦燥感だけがつのってゆく。


小さな赤ちゃんを育てているお母さんが、赤ちゃんがお昼寝をしているすきに買い物に出かける。
出かけなければいけない必要な買い物。ミルクにおむつ、夕飯の食材。
ほんのそこのマーケットまで車をとばして、さっさと買い物をして帰ってくるつもりだった。
けれど道が渋滞している。車はやがて全く進まなくなる。脇道もない。前に進むことももと来た道に戻ることもできないまま、時間ばかりが過ぎてゆく。
お母さんは赤ちゃんが目を覚ますのではないかという心配でドキドキしてくる。動悸が止まらない。
今頃、赤ちゃんは目覚めて一人ぼっちの不安におびえて泣いているかもしれない。過呼吸になってしまったらどうしよう。興奮してベッドから落ちてしまったらどうしよう。
手が届く場所に危ないものは置いてなかったか?
フト思い出す。読んでいた新聞をベッドサイドに置いたままで出てきたことに。
もはや「赤ちゃんが新聞を口に詰めて窒息しそうになっている」という想像で頭がいっぱいになってしまった。
早く帰らなければ!けれどもどこにも動けない。渋滞だから!
嫌な想像に苦しみながら、心はここではない別の場所で焦っている。


この二つのエピソードでの感覚、なんとなくわかってもらえるでしょうか?
(両方とも私がよく経験してきたごくありがちなエピですが(汗))
こういう嫌〜な気分。覚えがある人も多いと思います。
人間は二つの場所に同時に存在できない。
肉体は一つしかないのに、想像力は多岐に及ぶ。そこに一つの悲劇があるのです。
存在できないもう一つの場所に対して、人は不安と焦燥と、自分が立ち会っていないゆえにおこるであろうさまざまな事態を妄想するのです。
見えないからこそ、です。
そして同時に、目の前のものを見ていない。
心ここにあらず、だからです。それが更なる悲劇を生む。


カフカの「田舎医者」は、誰もが経験しうるこの独特の感覚を描いています。


カフカ短篇集 (岩波文庫)

カフカ短篇集 (岩波文庫)


夏葉社の「冬の本」の中でマッタンが取り上げていたカフカの「田舎医者」を読みました。
文学という手法がもつ本質的な作用の一つが効果的にでている作品です。
うまく言葉に出して言えない感覚…でも、「これこれこういう時にそういう気分になるんだよ」、というエピソードを通してだったら誰かに伝えることができる感覚そのものを表現しうるのが文学というものなんだと、しっかりわかる作りになっています。
カフカはこの「感覚」を描くために必然的に非日常的な(ありえない)状況をよく描くけれど、「変身」や「審判」などよりもこの「田舎医者」はわかりやすい(想像しやすい)題材で、学校のテキストなどにもうってつけですね(長さも)。


ちなみにこの文章(アフェリエイトの前まで)も、マッタンの方式をまねて書いてみましたw
自分の体験をまず書く。そこに作品をちょろっと絡める、という手法。(その作品を読んで、頭に浮かんだ「自分の事」を書く、という感じか)
作品のあらすじはまず、書かない。


ニッポンの書評 (光文社新書)

ニッポンの書評 (光文社新書)


こないだ読んだ豊崎由美さんの書評の本(「ニッポンの書評」)の中で、「書評にはあらすじが大切で、あらすじと引用だけの書評があったっていい、むしろ自分語りなど削るべきだ」という意見がありました。
私もたぶん、それが堂々たる書評というものだと思います。
最初(まだマッタンの魅力に気づいていない時)、書評だと思って彼の文章を読んだものだから、かなりムカッとしたのです。
「コイツ、ちゃんと読んでねぇな。」って思った。
本の紹介にはまるでなってないもんだから。
今思えば、マッタンの書いてる”本にまつわる文章”は書評じゃないんで、あたりまえですが。
書評であるという縛りを外してみると、がぜん彼の文章は面白さを増します。


評論家でもない読者が、読んだ本に関して何かを書こうとする場合、それが書評である必要なんかないんですよね。
だって読者は消費者なんですから。
ブログで感想を書くのだって、書評だとか感想文だとかくくる必要なんかないんですよ。
ほとんど作品に触れなくたっていいじゃん、くらいのものがあったってこっちの勝手でしょ。
……ってことを、私は初めてマッタンに教わりました。
新しい境地かもしれません。
マッタンはものすごくいろんなことを私に教えてくれるのです。
ほとんど文学周りの事ですけどね。こんなパターンで人を好きになったのは初めてかもしれない。その人のシュミに自分も夢中になる、みたいなね。
言ってみりゃこれって同人だわなw
影響されて、今まで読んだことのない作家の本をたくさん読んでいます。
俳句の楽しみも教わっているところです。
季語辞典(歳時記ね)が欲しいです。カラーで5巻の写真が多いやつ。