流れる雲を眺めつつ

2005年6月7日のエントリ再録


なんだか自分だけが動いていないような気がするときがある。


だからといって、遅れをとっているような気がして焦るということではないんだけど・・・なんというか、「ああ、時も人も過ぎてくなぁ」って感慨深くなっちゃうというかセンチになってしまうというか。
私は自分のことを「転がる石」のようだと思っていたけれど、ほんの小さな自分のテリトリーの中でしか転がっていなくって、本当は全然、外の世界を知らない。
知りたいとも思っていないのかもしれない。


例えば私は一軒のモーテルのあるじで。(場所はネバダあたりを想像してみてください(笑)ちょっと「バクダッド・カフェ」なイメージでOK)
かつては幹線道路沿いにネオンもきらびやかに営業してたモーテルでした。
売りになる特製ビーフジャーキーも作ってたし。そん時はたくさんの人がやってきたりしてたわけです。


ところが、時代とともにバイパスも高速道路もできて、旧道のモーテルなんかに寄る人は激減。ビーフジャーキーもネタ切れで作れず。ぶっちゃけ営業じたいに力が入らない時も多々あり。


客足は途絶え、いまやモーテルはひっそりとしている。
ネオンももはや輝かない。
看板は朽ち、グラスには埃が。ホールに飾った写真もセピアに変色してしまっている。

そんな中でも、たまーに昔の常連客がやってきて思い出話をしてく。
昔の泊り客の話とか、あの頃流行った歌の文句はなんだったけ?とか。
暑い夏の午後なんかには、誰もいないポーチでレモンスカッシュなんか飲みながら、私は一人でボーッと空を見上げている。
目の先にはずーっと砂漠。
カラカラと風車の回る音だけが聞こえてて。


とはいえ私はちっとも悲しくはないの。
困ってもいないし、「どうしよう」とも思っていない。
むしろ幸せで・・・でも、すごく「センチメンタルな幸せ」を感じているわけなんですよね。
時も人も去っても、私には私の場所がある。
本当は最初からこうだったんだから、あの賑わいは夢だったんだなぁー・・・とか、レモンソーダの泡を見ながら懐かしいような気分で過ぎた季節を思う。それは必ず微笑みと一緒に。


この感覚って何かに似てるなぁ・・・と考えて、ふと「青春に似てるんだ」なんてなことを思ったり(笑)。


私にとってネットとはそういうところでした。


実人生ではとっくの昔ですが、ネットでは私はついこの間まで青春だったんですよね。
でも、もはやそれは過ぎましたねぇ・・・。
そういうのをこないだふいに感じたんです。「あ、今度は本当にもうダメだな」って。
ダメ、っていうのとはちょっと違うんだけど・・・今まで曖昧にしておいたものも、とうの昔に本当はハッキリしてたんだ、と気づきました。
曖昧にしていたのは、そうすることによってまだつなげる絆があると思っていたからです。
でも、そんなこともなく。
なので、もう戻れないところに戻ろうとするのはやめました。
オトナにはオトナの流儀があるもの。
って、別に何をするってわけでもないんだけど(汗)。意識の上での変化があったということです。
ひとつの季節を過ぎても、私には私の場所があって、それはこれからも(たぶん)ずっと続いてゆくんだと思います。
けれど、寂れた旧道のモーテルがかつての賑わいを取り戻すことなどないように、私の場所も今後は私の場所として存在するのみなんだと思います。


それでも私は寂しがりなので、時々誰かが尋ねてくれると嬉しいです(笑)。


これからもよろしく。